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広島・長崎の平和記念式典への疑問

毎年この季節になると、第二次世界大戦末期のアメリカ軍による広島、長崎への原爆投下を非難する平和記念集会が報道される。
しかしそれも、8月15日の終戦記念日までの関心事であり、あとは翌年にまた同じような動きがあるだけ。
何十年も続いている集会だが、この運動のお陰で核兵器が減ったなど寡聞にして聴かない。
今年はハン・ギブン国連事務総長ルース駐日アメリカ大使が参加した事がニュースにとりあがれられたが、ルースは質問にも一切無言を貫いた。
それはそうだろう。
アメリカでは、原爆反対集会に大使が出席するだけで、大反対運動が起きる。
オバマ大統領が「核の無い世界実現」と約束したものの、アメリカは公式には一切日本への核兵器投下を謝罪していないし、自国の核兵器をドンドン減らしているわけでもない。
むしろ日本への原爆投下については、「多くのアメリカ兵士の命を救った」と評価している勢力の方が多い。

今年は11月に、オバマ大統領来日、広島訪問を働きかける動きがある。
実現するかは微妙のようだが、例えオバマ大統領が広島に来ても絶対に謝罪する事はない。
彼の目的はただ一点、「核兵器無き世界」を目指す姿勢をアピールしたいからだけだからだ。
僕は、核兵器で直接殺戮されたり、核兵器の後遺症で苦しんだ広島、長崎の市民に心から同情するし、アメリカの暴挙を絶対に許しても忘れてもいけないと固く信じている。
日本と韓国では、戦後補償が国家間で合意に至っているが、日米では、敗戦国日本が補償する側ではあっても、最も非人道的に原爆を投下したアメリカは何ら戦争責任を問われる事がない。
全く納得が出来ないのだが、国際社会では「勝った者が正しく、負けた側が何を言おうと負け犬の遠吠え」でしかない。
原爆の被害者日本は、国際的には戦争の加害者として認識されている。

核兵器は、長崎、広島の悲惨さが伝わるほどに、武器としての存在感が増している。
全くの皮肉な現象だが、それが現実だ。
北朝鮮やイランは、国際社会の監視の目をかいくぐって、核開発に血道をあげているし、その事が交渉の武器になると確信している。
最近では、テロ組織が核兵器を買い付けるのではとも恐れられている。
核兵器の無い国を目指す為の方法はただ一つ、世の中が核兵器不要な社会になる事しかない。
その為には、核兵器を武器に自己の利益を実現しようとする輩を一掃する事が必須になる。
そうすると常に、「そんな連中は核兵器を使用して潰してしまえ」の様な極論が出てきて、核兵器の効果が再確認されてしまう。
その時はどこかの国の考えが絶対正義だと押し付けられる事になり、「そんな事は御免蒙りたい」と反対する勢力が、核兵器を使用してでもこの動きに抵抗しようとする。

だからいくら集会を開いて反対を表明しても、それだけでは絶対に核兵器の無い社会は実現できない。
毎年繰り返される日本の平和記念式典に海外からのゲストが増えると、国内は被害者への同情から敬虔な思いと運動の進展への期待感に駆られるが、世界的な関心を呼ぶ事にはならない。
広島市長は、「日本政府は率先して核の傘から離脱を」と演説していたが、こんなのは冷酷な国際社会にあっては自殺行為でしかない。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」は、宗教上の理想かもしれないが、負けたら最後の国際社会では「右の頬を打たれる前に相手を殴れ」が正しい。

式典に参加しているのは、全員が善意の人達だろう。
核兵器が大好きだとか、戦争のある社会を望んでいる人などはいない。
誰もが、核兵器の悲惨さ、残酷さ、むごさを痛感し、核兵器の無い世界を切望している。
しかし残念ながら、今この瞬間の世界平和は核兵器のバランスの上に危うく乗っかっているだけだ。