昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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正月だけど義母にボケの症状が......

「もういくつ寝るとお正月、お正月には凧揚げて、独楽を廻して遊びましょ。早く来い来いお正月」
って、子供の頃は歌まで歌って待ち焦がれたお正月。
しかしこの年になると、何の感激もない。
会う人ごとに、「おめでとうございます。今年も宜しく」と挨拶するが、年末から正月にかけて格別の変化があるわけでもない。
その正月休暇を利用して、嫁さんは12月26日月曜日から帰省した。
電話で様子を聞くと、声の調子は尋常ではない。
「貴方も来れば分かるが、母が娘である自分の顔を忘れている」と大ショックを受けている。

娘を待ちかねていたはずなのに、実際に到着しても余り喜ばない。
他の人とは全く普通に会話しているのに、娘に対して敬語を使う。
とどのつまりは、料理を作ったのが娘なのを理解できず、「貴方は、断りもなしに勝手に料理したり、夜遅くまで灯りを煌々と照らしたり、ストーブをつけっぱなしにしているけど、一体誰ですか」と文句を言う。
娘(=妻)が必死に「ワタシよ!」と言い聞かせても、「娘は東京にいるはず」と取り合わない。
挙句は「貴方がよく気が利いて動いてくれるので助かる。私には娘がいるが、とっても親孝行なんですよ」と、実の娘に自慢する。
妻は、母が一気にボケたと、不安になってしまったらしい。

そんな先入観があり、それなりに覚悟して年末に義母を見舞うと「アァ、○○さんが来てくれた」と、全く正常に僕を認識する。
目の輝きも、くぐもってはいない。
妻には「全く心配ないな」と話しかけたが、続いて「昨日はこの家に、まるで知らない人が上がりこんで、勝手に冷蔵庫を開けたりする。腹が立ってよっぽど文句を言おうと思ったが我慢した」と訴えてきた。
やはり娘を認識できていない。
昔の僕の写真を取り出し「これは誰ですか?」と聞くと、「これは貴方でしょ」と正解する。
続いて妻の写真を見せると、「これは娘の△△」と答える。
そこで目の前の妻と一緒に、「これが僕ですヨ、これが娘の△△」と指差しながら説明すると、首を傾げてしまう。
落ち込む妻に対しては、「娘の記憶が壊れてしまったようだので、母と娘の会話は無理かもしれない」と言い聞かせるしかなかった。

翌29日。
朝一番から妻と義兄が、義母に「自分達が子供だ」と説明しても、「娘はこんな垂れ目ではない」と取り合わない。
ところが朝食の時、「この味噌汁は美味しい」と言い出し、娘に「あんたが作ったの?」と質問する。
どうやら味噌汁の味を通じて、娘の手料理を思い出したらしい。
その後は、全く普通の母と娘の会話に戻っていった。
途中では「昨日はこの部屋で、知らない人が勝手に料理をしていた」と、前日の事は相変わらず誤解のままだが、現在進行中の話では何一つ齟齬をきたさない。
昼食は近所のうどん屋へ。
義母は旺盛な食欲を見せる。
その後、帰宅途中で、運転中の義兄に敬語を使い始めた。
義兄は、会話を通じて何とか記憶を取り戻そうと様々な話題を振ると、「貴方は良く私の事をご存知ですね」と感心する。
家に戻った途端に子供が分かるのだが、「さっきの運転手さんはどこにいった」と質問する。
また「あんなに詳しく自分のことを知っているなんて怪しい」と、警戒心をあらわにする。
どうも環境変化への対応が上手く機能しないようだ。
それまでの施設生活から、娘が帰宅してきた環境変化が理解できない。
車に乗るだけで、状況が変わり、息子と運転手の区別がつかない。
今はまだらボケ症状だが、だんだんボケの部分が長くなっていく事になるだろう。

義母は腰痛こそ訴えるものの、食欲はあるし、何よりも過去の細々として出来事を鮮明に覚えている。
家族の認識能力以外は、極めて健康だ。
今年から、ボケとの長く辛い戦いが始まる。
子供達二人と、その片割れの一人にとって悲しい事だが、これを運命と悟って可能な限りの親孝行をするしかない。
ただ、義母の介護を通して、義兄と我々夫婦には強い連帯感が生まれた。
「これが母親のプレゼントかもしれないね」
この言葉が希望の綱だ。