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イジメを考える

滋賀県の中学で起きたイジメ問題は、市側から和解案が出されたらしい。
死者への哀悼の意もなく、ただひたすら責任逃れに終始してきた教育委員会や校長は、実に品性下劣な顔立ちだった。
彼らの醜悪極まりない対応振りを見ると、人間の品性は顔に出るものだと思ってしまう。
いじめた当事者達もまた、依然として己が犯した大罪への反省もなく、「遊びの範囲だった」と主張しているらしいが、多額の金銭まで脅し取っていたことまで分かってくると、最早いかなる言い訳も見苦しく、聞き苦しい。
こんな卑劣漢なのに、少年法の庇護の下、反省の機会を与えられ、実名も顔も晒されない。
被害者側は、思い悩んだ挙句に自ら命を絶ってしまった。
加害者には配慮があり、自殺した被害者は立ち直ることも、加害者に反撃することも出来ない。
何と不合理なことだろう。

イジメは、格差問題と共に、常に競争を強いられる現代社会が抱える大矛盾の一つだ。
日本だけではなく、世界的に問題になっている。
アメリカのボルチモア州で、ネットを通じていじめられた少女が自殺、アメリカンフットボールのスター選手が音頭を取り、イジメ撲滅運動が始まったと放送されていた。
イジメない。
見て見ぬ振りをしない。
すぐに他人に相談する。
等々、教育評論家やコメンテーターたちは、イジメへの対策、処方箋を語る。
しかし全く残念ながら、結果的に強者と弱者を生み出してしまう社会では、イジメが撲滅されることは無い。
実はイジメは、本当は何らか弱い人間が、自分を擬似強者に見立てたい欲望や、自分が弱者として扱われることからの逃避手段であり、また自分と違うものへの恐れと排斥だからだ。
そのために攻撃の対象は、自分よりも弱い立場の人間やグループに向かう。

自分の人生への満足度や諦めは、他人との相対比較で決まってくる。
江戸時代の身分制度は、士農工商と位置づけられたが、農業は実質的には最下層だった。
時の権力者側は、しかしその農民に諦めさせる効果を狙って、身分制度には位置づけられてはいないが、更にもう一段下の階層を作った。
「もっと不幸な連中がいる」となると、人間はそれなりに満足し、我慢するものらしい。
その結果、些細な言いがかりを理由に、差別され、イジメられる階層が出来てしまった。

こういった身分制度は、無論近代では認められていないが、イジメの精神的構造は簡単に消え去るものではない。
仲間を集め、徒等を組み、そのグループから外れた対象を排斥し、先手必勝とばかりに暴力で攻撃する。
自分と違った価値観、果ては外観までが、差別とイジメの対象になる。
宗教の世界でさえ、信仰している神様が違えば、それが迫害や争いの対象になってしまう。
全知全能のはずの神様ですら、イジメを撲滅できないばかりか、ある場面では積極的に相手をイジメる音頭とりの役割を果たす。
人類はそんな歴史を繰り返してきた。

イジメがいけないことは、誰もがわかっている。
しかしそんな人でも、自分と違うものは、恐れ、嫌い、差別しがちだ。
だから、声高に「イジメ反対」と叫んでも、実はイジメがなくなることはない。
僕は、せめて自分の周囲にだけは、イジメる側の人間を作らないことくらいしか対策を思いつかない。