昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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顧客の教え

仕事を通じて、多くの先輩、顧客、同僚、そして後輩からも、多くの教訓を得た。
僕自身は、仕事についた時点では、生半可の知識を振りかざし、世間の不正、不条理さに異を唱える、どうしようもないハネッ返りの若造だった。
しかし仕事につき、担当を持てば、それなりの責任も発生する。
「世の中は、そして仕事はかくあるべし」などと能書きを並べても、顧客が注文してくれなければ飯の食いっパグレになる。
世間知らずの若者だったが、多くの人たちに助けられた。
僕の周囲は、そんな青臭い生意気野郎を、時間を掛けながら教育してくれた。
反面教師の役割しか果たさなかった人たちもいっぱいいるが、いずれにしてもその全てが、僕の人生観に大きく影響している。
 
僕に与えられた仕事は、営業だった。
決して望んでいたわけではない。
むしろ、知らない人との会話が大の苦手だったので、配属面接で「営業以外ならどこでも」と答えたくらいだから、一番毛嫌いしていた部署だ。
しかしやむを得ない事情があり、営業の仕事を、しかも異例の一地方営業所勤務からスタートすることとなった。
しかも担当は、会社の中でもマイナー商品。
要は、何とか仕事を割り当てただけの、全く期待されない新入社員に過ぎなかった。
 
そんな将来性ゼロの人間だったが、顧客は個人が抱える問題など知っているはずがない。
どんなヘボ人間でも、自社の担当にはそれなりに期待するし、訪問すれば歓待してくれる。
内実はヨレヨレ見習い仕事を続けていると、一年後に第一次オイルショックが発生した。
石油がなくなるとの恐怖感が日本中を襲い、主婦はトイレットペーパーや洗剤の買占めに走った。
今にして思えば、仮にトイレットペーパーや洗剤を一年分備蓄しても、本当に石油がなくなれば何の役にも立たない。
しかし当時の庶民感情は、何とか最低の日常品は貯めておきたいとの気分が蔓延していた。
 
こんな大騒ぎは、庶民レベルだけではなかった。
産業界も上を下への大騒ぎで、とにかく必要な原料は、どんなに価格が高くても確保することに躍起になった。
否応なく、調達価格は暴騰する。
日本を代表する団体、石油連盟が「千載一遇のチャンス」と便乗値上げに走り、世間の袋叩きにあったのもこの時だ。
後にゼネラル石油社長が引責辞任する羽目になったが、社内で激烈な出世競争に打ち勝った人材でも、経験のない危機にはこんな程度の対応しかできないことを表している。
尤もこれもまた、今だから分かることだが。
 
当時は全製品が売り手市場であり、御多分に漏れず僕の担当する商品も極度の品不足だった。
その対策として、社内で勝手に顧客からの受注上限を「顧客向け販売枠(ワク)」として決めていた。
顧客がどんなに発注しても、これ以上の量は出荷してはいけないとの自主規制だ。
今にして思えば不遜極まりないやり方だが、当時の社内ではごく当たり前と思われていた。
そんな日本中が狂乱物価に戦いている時、ある顧客を訪問した。
すると懇意にしていた担当者が、烈火のごとくに怒っている。
聞くと、「君の会社の〇〇商品を注文したら、もうワクオーバーだから出荷できないと言われた」らしい。
彼の論法は、
  ・大体ワクなんて、勝手にメーカーが決めたもので、自分たちは一切与り知らない。
  ・自分の会社は、タダでモノを貰おうとしているのではない。
  ・勝手にタダで貰うモノを量を増やせば、文句を言われても仕方がないが、
  ・納入された商品には、キチンとカネを払うのだ。
  ・ならば、最初は注文への感謝があり、次に納入できないことへの謝罪があるべきだ。
だった。
 
第一次石油ショックの時代だから、みんな頭に血が上っている。
しかし冷静に考えれば、商品を受注するのは日頃の営業努力の積み重ねが必要であり、その結果顧客が発注してくれたら、先ずは感謝するべきだ。
僕はこの言葉を聞いた時、目から鱗が落ちた想いになった。
そうだ、営業って、注文を貰うことが始まりなのだ。
手持ちの選択肢の中から、自分が担当する製品を注文してくれたのだから、何をさておいても先ずは感謝しなければ。
世間知らずの青二才だった僕だが、そんなことを痛感した。
 
僕は結果として、その後の会社生活のほとんどを営業担当で過ごすことになった。
この顧客の「言い訳や理屈は二の次、先ずは感謝から」は、その僕の仕事の原点だ。
事あるごとに、感謝の気持ちを忘れないようにと、後輩たちにも披瀝した。
また仕事を離れた社会人としても、感謝の気持ちからスタートするとうまく行くことが多い。
一地方の、一顧客、しかも中小零細企業の担当者だったが、こんな素晴らしい人生訓を教えてくれた。
45年近く経過したが、今でも感謝の気持ちで一杯だ。