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原爆記念日への違和感

 

本日8月6日は、広島に原爆が投下された日で、今年は74年目らしい

この日と、数日遅れの8月9日、長崎への原爆投下の日には、決まって追悼番組が報道される。

しかしその内容は、測ったように決まって同じだ。

 

因みに今年の広島では

 ・70歳前後と思われるオバサンが「戦争のない平和な世界を」と涙ながらに訴える

 ・小学生と思われる子供が、戦争への恐怖と、戦争反対の決意を述べる

 ・そして、長らく原爆の悲惨さを訴えてきた人の活動ぶりを報告する

 ・国連の核兵器使用禁止条約に賛成しなかった日本政府の対応への批判

名指しこそしないが、最後を安倍政権への批判で〆るのが、如何にもNHKだ。

しかし僕は、毎年繰り返されるこの手の報道や、その内容に強い違和感がある。

 

誤解がないように言っておくが、僕も原爆や戦争用兵器は、世界中から一掃されればよいと強く思っている。

しかし冷酷無比な国際社会では、むしろ核兵器が悲惨な災厄をもたらす武器であればあるほど、その利用価値が見直されているのが実態だ。

日本への原爆投下は、無辜の民を大量殺戮したアメリカの戦争犯罪そのもので、決して許すことのできない暴挙だ。

しかし世界は、それで核兵器の利用価値を再確認した。

だからこそ、日本でいくら誠心誠意の思いで核兵器廃絶を訴えても、多くの国が核兵器開発を急いだのだ。

 

NHKも、日本で核兵器反対を訴えている人も、純粋にそんな気持ちが強いのなら、現に核兵器を開発中の北朝鮮やイランで反対運動をやってみればよい。

直ちに拘束され、良くて国外追放、下手をすれば勾留され、身の安全など保障の限りではない。

 

原爆反対集会で、毎年同じようなゲストが、同じ内容の決意を述べ、同じ決議が採択されるのに、北朝鮮やイランは核兵器開発を止めない。

隙あらば核武装を考える国は、増えることはあっても減ることはない。

そんな中で、真剣に核兵器廃絶を願うのなら、今のやり方では何故その成果が全く現れないかを反省し、今後の活動ぶりに工夫しなければ進歩がない。

74年も経過したのに、何一つ成果がないどころか、今そこにある北朝鮮の核開発リスクすら止めることすらできないのでは、来年もまた同じ繰り言を重ねる集会になるに違いない。

 

世界中を見渡すと、戦争がなかった日は、一日としてない。

世界のどこかで、必ず悲惨な戦争があり、その被害者が発生している。

何故、戦争が根絶できないのか?

それは、戦争が紛争解決の最終手段だからだ。

世界中には、多数の価値観を持つ人たちが共存している。

言語も人種も宗教も違う人間の集合体では、その全部が合意し納得する価値観など、残念ながらあり得ない。

すると、どうしても自分の意思を推し進めたい人と、それに反対する人の間で諍いが起き、最初は話し合い解決を目指すが、それでも解決しない場合は武力に訴えてでも自分の正義を貫こうとする。

神様の教えを信じる宗教ですら、反対派を圧殺してきた歴史があるほど、争いは人間の本質なのだ。

 

広島記念式典では、松井市長が「決して戦争を起こさない、理想の世界を目指す」とスピーチしたが、そんな世界の実現はあり得ない。

子供代表が、如何にもわざとらしい口調で、平和への誓いを述べる。

しかしそれは去年も見た同じ光景で、彼らは来年もまた同じ内容のスピーチを繰り返すに違いない。

そこでは、核兵器の恐ろしさが強調されるが、むしろ今のところ、核実験こそ散見されるものの、実際に核兵器を使う戦争は起きていない。

現実の世界では、核兵器が核戦争の抑止力として機能しているのだ。

核兵器を使わないようにするために、核武装をする国が増えているのだ。

 

 北朝鮮の核開発を止めるのは、広島の「魂の叫び」ではなく、アメリカを中心とした国際社会の武力行使を含んだ圧力でしかない。

そんな現実に目をつぶり、毎年、定期公演のような原爆反対集会とその報道を繰り返しても、世界平和実現には無力だ。