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人民裁判が横行する社会

東電元幹部三人の裁判結果が、無罪になった。

そもそも、「東電元幹部は、絶対に罪人だ」との国民心理に阿り、強制起訴したような案件なので、法律的には当初から予想された結論だ。

 

しかしこんな判決が出ると、年中行事のように「不当判決反対」のプラカードを持った連中が現れる。

マスコミもまた、「国民は納得しない」と、煽り続ける。

要するに、自分たちの意に副わない判決は、彼らにとっては全てが「不当」なのだ。

 

しかし、世の中には様々な価値観が存在する。

自分の意見だけが、必ずしも正義ではない。

そんなことは、ある程度の人生経験をすれば、痛いほど分かってくるはずだ。

だから、自我を抑え他人に寄り添う術も身に着けるし、人間的な幅もできてくる。

  

確かに被災者にとって、「自分たちが苦しんでいるのに、東電の元幹部がヌクヌクとした生活を送っているのは怪しからん」との感情はあるだろう。

しかし今回の裁判で、東電元幹部が問われたのは、

 ・東電元幹部は、事前に超大型津波の防波堤が必要と知っていた

 ・にも拘わらず元幹部三人は、それを防ぐ措置を取らなかった

との疑いへの事実確認なのだ。

「東電側は利益最優先で、本来必要な措置を取らなかったに違いない」と考えると、勧善懲悪が大好きな国民には、「諸悪の根源は東電」と分かりやすいストーリーになる。

但しそれを、証拠をつけて裁判で立証するのは、実に難しい。

 

今回の裁判では、「確かに防波堤の必要性を訴えた役員がいたが、それは資料を配布しただけで、会議での議論ではなかった可能性があり、信頼性に欠ける」としている。

慎重な言い回しだが、裁判所としては、証拠は後付けのデッチ上げではないかと考えているという事だ。

今回の判決を聞く限り、東電元幹部が「超大型津波を予測していたのに、恣意的に対策を取らなかった」と断定するのは無理だと思う。

 

もしも裁判所の見解が真実なら、検察側(今回は指名弁護士)は、被告を有罪にするためなら、何でもいいからと、怪し気な証拠を挙げてきたことになる。

いくら、被告を有罪に追い込むのが検察官の仕事とは言え、人間としては決して褒められたものではない。

こう言うと、吉村昭の著書「三陸海岸津波」に、三陸海岸では高さ50m津波に襲われたと書いているとの反論があった。

過去に福島のすぐ傍で、そんな大規模津波が発生していたのだから、東電はその予防措置を取るのが当たり前との主張だ。

しかし、福島と三陸海岸では、地形が違う。

更に、実績50m津波への防波堤を作れば、今度はその崩壊を心配しなければならないし、海岸線をそんな防波堤で覆い尽くすことなど実際は無理な注文だ。

 

そもそも大津波の原因となった大地震は、民主党政権下で起きた。

その民主党政権が誕生した時に、蓮舫女史が中心となった「事業仕分け」を、多くの国民は熱狂的に支持したことを忘れてはいけない。

あの時蓮舫女史は、「千年に一度の洪水のための堤防は不要」と、バッサバッサと予算をカットして、日本中から大喝采を浴びた。

日本人の防災意識もこの程度だったが、その後、自然災害が発生する度に、この時の事業仕分けが被害を大きくしたとの批判も起きている。

しかし、蓮舫女史や民主党議員が、裁判に訴えられたことはない。

 

東電元幹部への判決が不満なら、控訴する権利がある。

しかし国民感情を優先した風潮が続くと、検察は勝てないと分かっていても、控訴しなければ世論が納得しないからと、結局は最高裁まで争うことになる。

結果として、時間と費用が掛かり、関係者へ過大な負担を課す。

日本が法治国家である以上、例え意に副わない結果であっても、「判決を素直に受け入れる」姿勢も必要なのではないのだろうか。