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残酷な権力者を生み出す共産主義の恐怖

僕は全く無名の市井の徒に過ぎないが、それでもブログを通して、共産主義の危険性について警鐘を鳴らしてきた積りだ。

 

人民の平等を実現するとうたった共産主義は、実は徹底したエリート主義だ。

少数のエリートが、もっと言うなら、たった一人のエリートが独裁者と化し、権力を独占し、人民を支配する。

そこには、人民の平等とか、安心とか、平和とかは絶対に存在しない。

たった一人の独裁者を守るための、恐怖支配体制があるだけ。

それが共産主義だ。

 

身近な例で、日本共産党を見れば分かる。

現在の日本共産党は、暴力革命を否定し、平和革命路線を歩んでいると自称している。

未だ破防法の監視対象団体なのが我慢できず、先だっても「共産党の暴力体質」と批判された途端「暴力革命を目指したのは、今の日本共産党とは別の連中」と言い訳した。

しかしいくら「今の日本共産党は平和的革命を追及している」と言い張っても、衣の下の鎧は隠せない。

彼らは、自分達に反対する勢力には、すぐに暴力的体質を露骨に見せる。

集団で押しかけ、自分たちと違う意見の持ち主をつるし上げる。

大声で憎悪に満ちた罵声を浴びせ、小突きまわし、見えないように足蹴を喰らわせる。

全てが、日本共産党の得意技だ。

 

共産党員はひたすら幹部の意見だけが正しいと信じ込み、批判することはあり得ない。

因みに、共産党のリーダーは一切過ちを犯さない、完全無欠な絶対神と崇められる。

実際は自分の立場を守るために、そんなイメージを作り上げているに過ぎないのだが、各々の国々が全部、そんな絶対神の下にヒエラルヒーを構築している。

そうすると、各国の絶対神同士が正しさを競い合うので、隣国の共産党リーダーとは敵対関係になってしまう。

インターナショナルなどと言いながら、自分だけが共産主義正統派と主張するので、必ず仲違いし、論争と喧嘩に発展していく。

ソ連と中国、中国と日本共産党は不倶戴天の敵だし、国の数ほど「我こそ正しい共産主義」を名乗る共産党が存在する、誠に見苦しい様を呈することになる。

 

歴史的に見ても、世界の為政者による人民の虐殺数ワーストファイブの中には、毛沢東スターリンポル・ポトと、三人の共産主義者がランクされている。

ワースト2位のスターリンは2千万人、ワーストトップの毛沢東に至っては数千万人、一説には8千万人を虐殺したと言われる。

二人合わせれば、何と一億人が、自分の反対勢力だったという理由だけで、しかもその多くが冤罪だったにも拘らず、有無も言わせず殺されているのだ。

ポル・ポトは、この二人に比べれば、虐殺者3百万人と遥かに小物だが、しかしそれはカンボジアが小国で、人口が8百万人しかいなかったからで、中国やソ連でならワースト二人を超える虐殺者になったやも知れない。

 

これが、共産主義の恐怖の実態なのだ。

 

日本共産党は、今の体制の平和主義を装うが、この路線の祖、宮本顕二が党内権力闘争を勝ち抜く過程では、凄惨な内ゲバを繰り返している。

この内ゲバもまた、共産主義の負の特徴の一つで、傍からは些細な違いとしか見えなくても、彼らにとっては決定的な差と見做し、違った意見の共存を許すことができない。

そこからは「異端は異教よりも憎し」の実践で、激烈な内部闘争になり、内ゲバから殺し合いにまでエスカレーとしていく。

当然、反対勢力の反撃にも備えるために、自分たちの暴力組織を抱え込み、それが情報収集のための諜報活動を繰り広げると、秘密警察の暗躍へとつながる。

これもまた、全ての共産主義が辿る、歴史的な必然だ。

だから共産主義には、言論の自由とか、政府為政者、権力者への批判などは絶対に許されないのだ。

 

僕は、共産主義の全てが悪いと言う積りはない。

行き過ぎた資本主義は、極端な貧富の差を発生させる。

資本主義経済の中で優勝劣敗が徹底されると、少数の強者だけが勝ち残り、多数の弱者が切り捨てられるが、過度の格差是正や、挫折した人、弱者への配慮は必要だ。

共産主義の中には、若干ではあるが、この弱者への心配りが存在している、

但しそれは、あくまで資本主義の修正バージョンであり、基本は自由な競争と自由な言論が保証されなければならない。

自由主義を経験した世界では、共産主義のような、唯我独尊で違う意見を圧殺する体制は、決して許されるものではない。

 

共産主義は、資本主義の矛盾を解決する社会体制として、世の中に登場した。

しかしその現実は、資本主義の矛盾を改良、改善する思想として、資本主義の発展に寄与しているのが皮肉だ。