Facebookの世界で、関西在住の「飯〇某」と言う、ほんのちょっと有名人がいる。
ヒダリ巻き意見を、右寄り人間が多いグループに投稿し、その都度炎上騒ぎを起こす。
果たして本物のヒダリ巻きなのか、あるいは愉快犯の一種なのか。
この「飯〇某」は自粛要請が続いていた大阪で、「コロナで死んでも本望」と、飲み屋界隈に女性連れで出没し、都度Facebookに記事をアップしていた。
また、齢60程度の前期高齢者だが、性欲は未だ旺盛のようで、飲み屋で女性といちゃつく写真を、いつも自慢気に紹介している。
途端に「エロ爺ィ」とツッコミが入るのが嬉しくて仕方がない、大いなる変わり者だ。
この御仁は、
・コロナで死ぬのは年寄りばかり
・社会貢献できない年寄りが感染しても構わない
・むしろ若い人たちには邪魔者が消えてプラスだ
と書きながら、確信的自粛破りに余念がなかった。
仮に、自分がお姉ちゃんと楽しんだ結果感染しても、どうせ死ぬのは年寄りばかり。
だったらドンドン感染者を増やしても、社会的なマイナスはないとの考えのようだ。
当然ながら、反論や批判が殺到する。
しかし「飯〇某」は、「自分がどう生きようと、死のうと、それは自分の意志なので、今を楽しまなければ」と強弁していた。
ネット社会では、このような主張が散見される。
武漢肺炎の死者が、圧倒的に高齢者に偏っていたし、若者が死なないのなら、むしろ金食い虫で社会の害虫老人の数は、減る方が良いとの極論だ。
楢山節考では、年寄りが自ら、逍遥として死を迎える様が描かれるが、「飯〇某」は無理心中のように年寄りを道連れにしようとしている。
思想としての、この差は大きい。
実は、役立たずの邪魔者を排除する思想は、ナチスやポル・ポトにも見られる。
ナチスが大量のユダヤ人を虐殺したことが有名だが、一方では身障者やマイノリティも「残すべき遺伝子ではない」との理由で虐殺している。
ポル・ポト政権も、ナチスと全く同様に、病人、身障者、年寄りは積極的に虐殺した。
日本でも、相模原事件で知的障碍者を大量に殺害し死刑が確定した植松聖が、「コミュニケーション能力がない人間は生きる価値がない」と主張していた。
ナチスやポル・ポトは悪逆非道と非難しても、植松の考えには一定程度の理解者がいるのが不思議だが、弱者排除の点ではナチスもポル・ポトも植松も一緒だ。
先の「飯〇某」の言い分は、本人はまるで無自覚でも、この連中の思想と通じている。
しかし、社会に役立つとか、無用だとかを、誰がそのような基準で判断するのか?
人間の価値は人それぞれで、社会に必要とか不要とかの判断は勝手に下せない。
どんなに病人でも、どんなに年寄りでも、身障者でも、本人が生きている限り、あるいは、その人の存在を必要不可欠だと思う人がいる限り、生きるべきだ。
また周囲も、そんな人たちを必死に、献身的にフォローしなければならない。
そこが、人間は社会的存在である所以なのだ。
自分だけの価値基準で、他人を、ましてや他人の生死を評価してはいけない。
「飯〇某」を面白がる人たちは、自分が選民思想に侵されていることに気が付かない。
自分は若い、自分は体が強い、自分はアタマが良い、だから自分は大丈夫と思っていても、世の中にはもっと若く、体力があり、頭脳明晰な人がいる。
そしてその選民思想の行く末は、最終エリートだけが支配者となり、落伍者を差別する社会でしかないことへの想像が及ばない。
どんなに殺伐とした世の中でも、自分は生き延びることができると自信を持っている人でも、弱者を差別する社会では、いずれは捨て去られるしかない。
個人的には、ヒダリ巻きの「飯〇某」などに、道擦れにされたら堪らない。
死んだ後の隣にヒダリ巻きがいて、下らない理屈をクドクド述べられたら、アタマにきて、死んでも死にきれない。