人類皆平等と言われる。
だから謂われない差別した人は、社会的に弾劾され、場合によっては抹殺されるまでのペナルティを課される。
しかし元々、人類は平等などではない。
生まれ落ちた直後から、不平等な環境に置かれるからだ。
先ず生まれた環境から、差がついている。
先進諸国と発展途上国では、乳幼児の生存率が違う。
同じ国内でも、金持ちの家で、超安全な面倒を見てもらいながら生まれ落ちる赤ん坊もいれば、貧乏でロクな設備も揃っていないところで、命懸けで生まれてくる赤ちゃんもいる。
この差は、誕生後の健康面や安全さにも影響する。
その後成長すると、学習面の差に直面する。
家庭教師付きで、且つ充実した設備で高度な教育を施す学校に通うのと、貧乏で家計を助けながら独学で学習するのでは、成果が違っても不思議ではない。
高額な手助けを受けて、偏差値の高い学校に入学すると、社会人になるための就職面でも有利だ。
別に大企業なら、必ず働きやすい仕事場と決まっているわけではないが、給料や安定さではデカい企業の方が信頼感がある。
高い給料を安定的に稼ぐことができれば、結婚相手にも恵まれ易い。
あれこれ言っても、生活が安定している方が結婚後もうまくいく。
誤解を恐れずに言えば、愛情ではカネを稼ぐことはできないが、カネで愛情を買うことは可能だ。
「天は二物を与えず」との言葉もよく聞く。
ならば、何かの才能や環境に恵まれた人は、見てくれは劣るはずだ。
ところが稀にだが、天から二物も三物も与えられる輩がいる。
これこそ、人類は平等ではなく、実は不平等の証拠ではないか。
何より、姿かたちの見栄えが良いのと、見るからにブスでは、経済的な恩恵に違いが生じる。
女性の場合は美人に生まれると、下心を持ったオトコどもがスリ寄ってきて、ご馳走してくれる。
しかし見てくれが悪いと、そんなチャンスは激減する(はずだ)。
「美人、美男子だが、アタマが悪い」のなら、まだ救いがある。
顔は負けていても、成績が良ければ、十分に勝負になる。
しかしここでも往々にして、顔で圧倒的に負けた上に、更にアタマの良さでも負けることがある。
更に人柄も含めてトリプルパンチで負けたら、もはやなす術なしだ。
これほど大きな差があっても、人類は平等などと言えるのだろうか。
ただこの世には、絶対平等なことが一つある。
それは、誰もが死ぬことだ。
死は、現世でどれほど恵まれていても、あるいは不幸のどん底で生きていても、誰にも一度、しかも必ず訪れる。
この死ぬ瞬間にどう思うかは、誰にも分からない。
生き返って、死について経験を披露してくれる人とがいないからだ。
だからこの死の瞬間は、想像するしかない。
僕のような俗物には、二種類に分かれているように見える。
一つは、従容と死を受け入れる人。
もう一つは、未練タラタラ、不満一杯で死んでいく人。
もちろん叶うならば、前者でありたい。
だが、生きている間が大満足の人生だったら、そんな状態をもっと続けたいと願うのが人情ではないだろうか。
もしそうなら、死にたくないとの未練が生じるはずだ。
一方、生きているのが辛くてたまらず、一刻も早く死にたいとまで思い詰めていたのなら状況は違う。
死を迎える瞬間は、それまでの苦しみから解放される安堵か、あるいは喜びまで感じるかもしれない。
死の瞬間だけの思考で、それまで味わってきた苦痛の全てが、チャラになるのかどうかなどは分からないが。
達観した人格者なら、死を静かに受け入れるかもしれない。
僕もそんな心境に至り、是非とも余裕綽々で死を迎えたい。
ただ、天から二物も三物も与えられていたら、こんな素晴らしかった人生を終えたくないと考えて、諦観の境地には程遠いに違いない。
恵まれていることは、必ずしも良いことばかりではないのだ。
バリ島で会ったバリ・ヒンドゥ―教徒は「生きている間より、死後の人生が遥かに長い」と話していた。
そんな長い死後の「人生」を気持ちよくスタートするためには、自分と世の中に不満一杯の人生でも良い(かもしれない)。
そう考えて、前向きに生きることにしよう。