昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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両親の死

僕の両親は、両方とも脳腫瘍で死んだ。

母は、お産以外で一度も入院した事がないほど元気で健康だった。….と思っていた。
我が家で10月に次男が生まれた直後に、長男も同時に病気になったため、当時は近くに住んでいた母が約二週間、次男の面倒を見ていた。
しかし、1979年末突然嘔吐。
母から、珍しく「赤ん坊の世話が出来ない」との弱音を聞いた。
僕の転勤が重なり、将に綱渡りの連続で正月明けに引越しが完了した。
その後に、母を入院させたら悪性脳腫瘍である事が判明。
長くて半年の寿命と宣言された。
それまでも、頭痛があったのではとは思うが、辛抱強い性格からか一切弱音をはかなかった。
ただ、晩年は、足が痛くて正座が出来なくなったり、更に発症する一年前ぐらいには緑内障になり、片目が失明したりと、後から考えれば脳腫瘍に起因する症状が見られていたが、家族は誰も全く気が付いていなかった。
医者から、「手術しても助からないが、延命は出来る。半年の寿命が一年にはなる。もしもこの間に画期的薬が発明されないとは限らない。手術しなかった場合、皆さん後悔されます。」と半ば脅迫にも近い言葉で手術を勧められた。
家族、特に父は、助からないと分かっている体にメスを入れる事に躊躇していたが、結局は医師の言葉に促される形で手術に合意した。
母は、単に高血圧で体調を壊していると言い包められていたので、髪を剃られ、頭蓋骨を開けられる大手術に大変なショックを受けたらしい。
ただ気丈な母は、手術後オムツをする事を最後まで拒否した。
下の世話を他人にされるのも絶対に拒否した。
手術後の意識がない時以外は、どんなに辛くても自分で用を足していた。
その後、病院にいても治療が進む訳でもなく、入院後三ヶ月近くたった1980年3月28日、病院から、一旦住み慣れた我が家に帰宅許可がおりた。
しかし、退院の為、車椅子に乗り病室を出た瞬間、病院の廊下で心臓発作を起こし、そのまま死んでしまった。
享年69歳。当時の平均年齢から見ても早すぎた死だった。
医師からの説明はしどろもどろだった。
家族は、脳腫瘍の進展を抑える薬が心臓への負担になり、それを見落とした医師の誤判断の退院許可が心臓発作につながったと思っている。
医師から、恐る恐る「後々の患者さんの為に解剖させて欲しい」との依頼があったが、激怒していた父は、「藪医者に妻の体を差し出せない」と痛烈に拒否した。
後ろめたかったのか、医師からそれ以上の説得やお願いはなかった。
後になって父は、「感情的になって解剖を拒否したが、果たして良かったのかな」と少し後悔していたが、母の一日でも長い生を望んでいた家族にとって、手術した事で母の寿命が反って短くなったとの悔しさは消えない。
もう26年以上も前の出来事だが、髪をそられた手術後の母の、心細そうな、悲しそうな表情を思い出すと涙が出る。

父は、それから5年後に脳腫瘍を発病した。
母が死んで以来、めっきり弱り入退院を繰り返すようになっていったが、家にいる時は、毎日仏前に手を合わせるようになっていた。
ある日外出中、突然倒れ、道路の側溝に頭を打ち付け、血だらけで病院に担ぎ込まれたらしい。
病院では、身元不明者扱いで大変困ったらしいが、夕方になったやっと身元が判明し、我が家に連絡があった。
怪我自体はたいした事はなかったのだが、なぜ倒れたのかを調べてみたら、脳腫瘍があることが判明した。
母と違い、父の場合は良性腫瘍であり、手術すればすぐに直るはずだったが、運命の皮肉で若い頃から持病の喘息があり、手術に耐えることが出来ない。
このまま放置するとどうなるのか?
医者の答えは、「だんだんボケていかれます。」
家族には堪える回答だった。
しかし、手術に耐える体力がない以上、如何ともしがたい。
父は、だんだんとボケていった。
通常は、普通に会話が成立しているが、話している途中、突然に話題が昔話に飛んでしまう。暫くするとまた元の話題に戻る。
しかし、いつも父が話す内容は、母への思い、家族との昔話、自分が生まれ育ち、母と生活し、子供を育てた田舎の風景だった。
僕が入院中の父を見舞いに帰省した日、午後から病院に行く積りで一旦実家に寄ったところ、真冬の昼頃、突然父がスリッパとパジャマ姿で病院から帰ってきた。
「今日、お前が見舞いにくる日だから、帰ってきた。」
唇を紫色にし寒さに凍えながら、自慢げに語る父。
喘息持ちの父にとって、寒さは大敵なのに。
兄は驚き、すぐに病院に電話したところ、病院では父が行方不明になった事で、上を下への大騒ぎとなっていたらしい。
兄は大変恐縮し、平身低頭謝っていたが、僕は、だんだん子供になっていく父が、息子の見舞いを待ちきれずに実家に着の身着のまま帰ってきたのが、悲しいくらいに嬉しかった。

父は、1985年9月2日入院先の病院で死んだ。
朝6時、看護婦がカーテンを開けた時、普通に朝の挨拶を交わしたらしい。
一時間後に朝食を持っていった時には息を引き取っていたと聞いた。
全く苦しんだ様子がなかったのが救いだった。
享年79歳。母の死から5年半が経っていた。

両親とも死んでしまったが、僕は今でも鮮明に、父と母のぬくもりを覚えている。
今後とも何十年経っても、間違いなく覚えつづけていくだろう。