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野球特待生の否定は絶対平等の考え

高野連のダッチロールで、野球特待生問題は、決着を見たのか見ないのか不明のまま、今年夏の甲子園を目指す高校野球予選が始まろうとしている。

元々、高野連は、野球によって特別待遇を受ける事を禁止していたのに、各高校は、予選突破して甲子園で活躍すると、手っ取り早く自分の名前を全国区に出来るので、そのためには手段を選ばず全国から有望選手をかき集めたのであり、その一環が野球特待生だったはずだ。
一部評論家から、「野球の技術に秀でた人間を特別視する事を禁止すると、野球そのものの人気が低迷する」と、野球特待制度擁護論があったが、実態は、「能力ある選手を更に育成強化する」との教育的観点よりも、野球の上手い選手が、野球ビジネスの手駒として利用されているに過ぎない。

僕は、実態が例えそうであっても、野球特待制度はあってしかるべきと思っている。

野球の上手い選手と勉強が出来る生徒は、能力を発揮する場所が違うだけで、やはり貴重なタレントである。
最近の小学校では、「差がつくことは差別につながる」との絶対平等なる妄想が蔓延っている為、運動会の徒歩競争でもほとんど差がつかないように配慮しているらしい。
予め予選会でタイムを計り、同じようなレベルの生徒を一緒に走らせる。

僕たちの時代は、洟垂れで勉強は全く駄目だが、一年に一度運動会ではヒーローになるような奴がいた。
彼は、たった一日だけだが、運動会の日に誰からも畏敬と賞賛を浴びる事で、残り364日の、つまらない授業や、理解できない勉強に耐えていた。
そんな生甲斐を奪ってしまえば、彼は全く、目立つ事ができなくなり、自らのアイデンティティそのものを見出す事が出来なくなる。

成績が良いだけが良い生徒ではないはずだ。
他に秀でた一芸がある子供は、その能力を高める為に、周囲は大いに支援すべきである。

「野球が上手いからといって特別扱いしてはいけない」との高野連の考えは、現在小学校で実施されている「絶対平等こそ正しい。出る杭は打たねばならない」教育と相似形ではないだろうか。