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臓器移植法案は必要なのだろうか?

臓器移植法」が国会で議論されている。
何を持って、人が死んだと認定されるのか?
死に行く個人の死生観だけではなく、家族がその死をどうとらえるか、個人の宗教感やボランティア精神が絡むだけに、簡単な結論などあり得ない。
先般のあるテレビで、この問題について国会議員が激しく意見を戦わしていた。

僕自身は、幸いにして自分の周辺に臓器移植が必要な病人がいるわけではない。
拠ってこの問題には、ほとんど無関心だった。
しかし河野太郎がエキセントリックに
「何百人の子供が臓器移植による手術を待っている」
「もう12年間も議論してきた。いつまで待たせるのだ?!」
「一体、何人の子供を殺せば気が済むのか?」
と喚いているのを聞いて、少し真面目に考えてみた。

河野太郎の論旨は、
・臓器さえ移植すれば助かる子供がたくさんいる
・しかし日本の15歳以下の臓器提供が法律で許されていないので、海外に頼らざるを得ない
・既に12年間も議論しているので、これ以上の議論は無意味
・今回の法律では、脳死の場合でも臓器移植を拒否できるので、強制的なものではない
一方、共産党の小池議員は
・人の死に関わる問題で、専門家、医者の意見すらわかれている
・後一年間議論したい
と主張していたが、あきらかに河野太郎の声の方が大きかった。
「臓器移植を合法化すれば、助かる子供たちがたくさんいる」と言われると、公然とは反対しにくいものなのだ。

しかし僕は河野太郎が強調した「臓器移植に反対する事は人を殺す事」に猛烈な違和感を持つ。
実際には、脳死状態になった臓器提供を拒否できる権利と言ったって、「ぜひ臓器を下さい。さもなければこの子供が死にます」と要求された時に断る事ができるのか?
もしも拒否する事で子供が助からなかった場合、臓器を提供しなかった側にはいつまでも罪悪感が付きまとう可能性がある。
結局は、法律が成立した途端、半強制的に臓器提供が求められると見ていたほうがよい。
また脳死と判断されたとは言え、子供の臓器を親の判断で他人に提供できるのだろうか?

更に言えば、提供する臓器は「生きたものでなければ意味がない」のだ。
死体からの臓器提供では効果がない。
だからこそ「脳死は人の死」との定義付けが必要となってくる。
しかし、脳死の状態でも人は呼吸しているし、体のぬくもりもある。
遺族にとっては、いくら「医学的には死んでいる」と説明されても、そう簡単に割り切れるものではない。
それなのに、「この子を助ける為には、この脳死した人の臓器が必要だ」と迫られると、進退極ってしまう。

図らずも河野太郎の「人殺し」発言こそ、この問題の深層面での難しさを表している。
臓器を要求する側に「子供を助ける」正義があり、断れば結果として「人を殺した」事になってしまう。
しかし、自分の子供を助ける為には、他人の犠牲はやむをえないことなのだろうか。
まさに各々の人生観、死生観、宗教感、家族への思いが問われる大問題だ。

実は今まで僕個人は、自分が脳死に至った時の臓器提供にはさほど抵抗感はなかった。
しかし河野太郎の感情丸出しの「人殺し」発言と「嫌なら拒否すればいい」発言を聞いて以来、どうも臓器移植推進派の論理に胡散臭さを感じてしまった。