昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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もういいよ、パート2

ブログ仲間の皆さんから、貴重なコメントを頂いた。
改めて、皆さんに感謝している。

実は「もういいよ」と言いたいのは、二つの面がある。
一つは、先行き不透明な世の中で、必死に努力しても結果が伴う確率は低い。
それなら、大いに気楽な人生を過ごした方がいい。
自分が生きている事で、社会に迷惑さえかけなければ良し。
出世して、結婚して、子供をもうけてとか、いわゆる一般的な幸せを追い求める必要はないのではとの思いだ。
もう一面は、「頑張れ」とか「努力しろ」とか「勉強しろ」とかの言葉が大嫌いな事だ。
言われた方は、余りに抽象的な指示で、何をどうしたらいいのか分からない。
言った方は立派な指示をした積りで、責任転嫁した気はサラサラ無い。
悪魔的言葉だと思っているので、自分では、公私共々使わないようにしている。

僕の学校の成績は、抜群に出来た訳はないが、少なくとも悪い方ではなかった。
ただ中学校までは、数学の成績が悪かった
これではイカンと中学三年生の三学期に一念発起、参考書を一冊買い込み三カ月で全問題を解いた。
すると、高校生になった後は、数学が一番の得意科目に変わった。
「頑張れ」とか「勉強しろ」とか「努力しろ」とはこういう事だと思う。
そもそも、勉強の仕方が分からないから成績が悪い。
そんな人には「数学が苦手なら、半年でこの参考書の問題を全部解く努力をしなさい」と、具体的に言わない限り、成果を上げるのは至難の業だ。

僕の今迄の人生は、とっても良かった方だろう。
他人様と比較できないし、また比較する物でもないだろうが、自分ではラッキーな人生だったと確信している。
しかしそれは、決して実力があったのではなく、また誰よりも努力した結果でもなく、単にツキがあっただけなのではと思っている。
逆に上手く行かなくても、それは運が悪かっただけと割り切る事にしてきた。
結果的に、成功例を驕らず、失敗しても楽天的なので、「良い人」と性格面を褒められる事が多かったが。
だから、自分のやり方や考え方を他人に教える程の自信がない。
「僕と同じ様にやれば、必ず成功するよ」とは、とてもじゃないが言えない。

「自分の可能性に賭ける」とは魅力的なフレーズだ。
若い人は、たとえ失敗しても立ち直るチャンスがある。
だから、少々無謀な挑戦でも価値があったし、それで成功した歴史上の偉人たちも多い。
その意気込みを否定する積りはない。
しかしそんな気迫もなく、目立たず騒がず、まるで平凡に生き続けるのも立派な人生ではないだろうか。

人間として生まれたら、自分の子孫を残すのが重要な役目だと聞いた事がある。
しかし、こんな碌でもなくなった世の中に、今迄の成功者と言われる価値観だけを持って挑戦する必要はない。
息子たちは、他人様に迷惑さえかけず、且つ一人で生きていけるのならそれで良い。
健康な生活を全うしてくれれば、それだけで満足で、能力以上の成果を期待してはいない。
幸い彼らは、先輩からも同僚からも、叩かれ鍛えられしながら、サラリーマン生活を続けている。
それだけでも、充分親孝行してくれている。
孫まで望むのは贅沢過ぎる。