昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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潮時、引き際、散り際

何事にも潮時がある。
寿命と言い換えても良い。
耐用年数とも言える。
無論これは、人間にも当てはまる。
潮時を見誤ると、折角築き上げた個人の成果も名声も、見るも無残に砕け散ってしまう。

僕は、多くの素晴らしい先輩諸氏に巡り合った。
仕事では、会社の先輩だけでなく、社外の顧客にも、「この人に巡り合えただけでも、この仕事に就いた価値があった」と思わせる人達がいた。
全員、人品骨柄卑しからず、立ち居振る舞いの見事さだけでなく、事業を見通す先見性や決断の速さ、果敢な指導力のどれをとっても、将に尊敬に値する人達だった。
しかし中には、余りにも成果を上げ過ぎたために、却って引き際を誤った人達も知っている。
結果として晩節を汚してしまうのは、誠に勿体ない。

責任の全てが自分に帰す個人商店なら、仕事にしがみつくのは、生き様の一つとして認められる。
生涯一選手に拘ったプロ野球野村克也は、その経験を活かして、解説者としても、監督としても成功した。
しかしこれは例外。
特に組織に関わって仕事をしている場合は、長居を決め込んだ人は、大半が鼻つまみ者になってしまう。
知らぬは本人ばかりなのが滑稽だ。

頭脳労働だけでなく、体力にも似た側面がある。
そもそも人間が作り出した機械には、どんなに精巧なモノでも耐用年数があり、50年間も故障知らずで稼働するものは少ない。
人間だって一緒で、いつまでも若い積りでいても、それは気分だけ。
実は、年齢を重ねるとともに、体の様々な部品に故障が発生する。
昔から、体力の変わり目を「厄年」と称していたのは、人間もまた精密な機械に過ぎない事を表している。
しかし厄介なのは、体力の衰えよりも、むしろ判断力の低下なのだ。

いつまでも正しい判断をしていると思っている事こそ、実は判断ミスとなると、これもまた笑ってしまう。
引き際を間違う人は、往々にして若かりし頃の成功体験を引きずっている。
そして、「自分がいなければ、まだ不安だ」と勝手に思い込み、世代交代のチャンスを逸する。
自分の業績は、自分で思い込むのではなく、他人の評価に任せなければならない。
ところが肝心の他人様に、嫌われる事を覚悟してでも、率直に実態を告げてくれる人は少ない。
実は、そんな気骨の人はとうの昔に遠ざけてしまって、疎遠になっているケースが多い。
勢い、茶坊主だけが取り巻きになってしまうと「まだまだ若手だけでは不安、貴方の経験こそが大事」と持ち上げられ、「そんなモノかな」と居座ってしまう。
年齢と共に、自分では「もうソロソロ引き際」と思う、瑞々しかった感性が衰えているのだ。

僕自身は、自分は絶対にそうはなりたくないと思ってきた(積り)。
自分の引き際は、他人に言われる前に自分で決めた。
大した実績も名声もなかったので、辞める事に対して気が楽だったし、残ってほしいと引き留める声もなかった。
そして今は、「全てにグッドバイ」状態で、最早仕事への未練もない。
完全リタイア老人として、最後の散り際を自覚しながら、今までとは全く違った生き甲斐を探している。