昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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より良い民主主義の為に

民主主義って、実にまどろっこしい。
最近の風潮を見ると、益々そんな気持ちが強くなる。
森友学園を巡る様々な問題を、「アッキード事件」と揶揄した参議院議員山本太郎の言動が不適切発言として注意され、話題になった。
この山本太郎の行動の是非については、賛否両論があるだろう。
僕は、こんな山本太郎の発言は常軌を逸していると確信している。
しかし一方で室井佑月山本太郎を、「現在の国会で彼ほど正論を述べている議員はいない」と激賞している。
僕と室井の意見が、正反対なのは一目瞭然。
 
テレビ番組のコメンテータ連中も同じだ。
奴らは、誰から、どんな基準で選ばれたのかは知らないが、一見オピニオンリーダーみたいなしたり顔で説教がましいことを喋る。
しかし、それは全て、奴らの持説でしかない。
不幸にして、僕が同調するような意見はほとんど聞いたことはないので、奴らがテレビに出演するだけで不愉快な気分になってしまうが、一方では奴らの話を「ご説ご尤も」と有り難く聞く人たちだってたくさんいるだろう。
 
そしてその両論は、決して交わることはない。
いくら話し合っても、一方が他方の意見に納得することはありえない。
 
民主主義では、こんな時は「充分に話し合って、お互いに納得する結論になる」のがベストだとされているが、どうしても意見が合わない場合は、やむを得ず多数決で方針を決定することになっている。
しかしそこで多数派になっても、まだ問題は解決しない。
必ず次に、「少数意見への配慮を」との、「正論」らしきものが待ち受けているからだ。
自分の意見が多数になったので、それに沿って進めようとすると、途端に「多数派の横暴」との批判が起こる。
 
また自分の意見を通そうと露骨に多数派工作をすると、ポピュリズム政治と批判される。
 
件の山本太郎への評価などはどうでもいいが、今起きている豊洲移転問題、テロ防止法、沖縄の基地問題等の政治問題になると簡単ではない。
アメリカでも、トランプ政権の評価を巡って深刻な意見対立が発生している。
これらの諸問題は、どんなに時間を掛けて話し合っても、立場の違いを乗り越えられるモノではない。
「では採決で決着を」となっても、「未だ話し合いが十分ではない」とか「何故結論を急ぐのか」とかイチャモンをつけられる。
僕もまた、小池百合子の政治手法に対しては、「仮想敵を作り、無知な大衆を煽り立てるポピュリズム政治」と悪口を言っているだから、人のことは言えない。
 
自分たちの意見を否定された少数派の不満は、決して消えることはない。
多数派になっても思うに任せないのなら、投票に負けたのに「少数の意見を尊重しろ」と主張している方が良いことになってしまう。
民主主義では何も決まらないから独裁政治となると、これはまた極めて少数の独断と偏見で物事が決まるので、スピードは速いが虐げられた者たちの不満が蓄積され、社会不安となる。
現実に独裁国家では、民主主義への憧れが強いが、それを政権側が強権で抑え込んでいるのが実態だ。
 
何をやっても、これこそ決定打となるような社会システムはなく、その中では民主主義がまだマシだ。
結局は、残念ながら多数派になりえなかった側がオトナの対応で、捲土重来を期すしか道はない。
民主主義においては、むしろ少数派の対応こそが最も肝要な点であり、負けっぷりもまた評価の対象になる。
その点で今の日本の野党は、民主党政権時代の野党、自民党に比べ、極めて幼稚だ。
共産党は論外だが、野党第一党民進党さえ、マスコミこぞって、あれだけコメンテータたちが応援しても、政権担当能力の欠片すら感じさせない。
野党が嫌いな僕には好都合だが、余りにも稚拙な野党の存在は民主主義の発展のためにはマイナスにしかならない。
民主主義って、本当にまどろっこしいシステムだ。