昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

日頃の思いや鬱憤を吐露!無礼千万なコメントは削除。

正月の風物詩と箱根駅伝

今年の正月は、天気に恵まれた。

とは言うものの、我が家においては、何一つ特別なことはない。

唯一、近所のデパートに発注していたお節料理に、家族で舌鼓を打つ程度だ。

 

正月一日は、テレビで実業団駅伝を放送している。

どこが勝とうが全く興味はないが、それでも他のバカ番組よりも、少しは臨場感を味わえるので、チャンネルをつけっ放しとなる。

午前中は、年賀状チェック。

一昨年から「年賀辞退」を連絡していても、未だ10枚近い年賀状が来る。

それに対して、お返しの年賀状に「今後は年賀辞退」と再連絡する。

これで来年は、年賀状の煩わしさは激減するはずだ。

 

午後は、恒例の近所の神社への初詣。

お賽銭100円で、家内安全、家族の健康成就だけでなく、経済が良くなり、韓国と疎遠になりますようになど、あらゆることを神様にお願いする。

少ないお賽銭で、多くの願い事をするので、一個当たり10円程度のお布施になる。

神様も「厚かましいヤツだ」とは思うだろうが、毎年同じことをやっているので、お目こぼししてくれるだろう。

その後は、まるで普通の日常が戻ってくる。

一年初めの正月一日が、こんなのんびりした過ごし方でイイのだろうか。

 

翌二日は、朝から箱根駅伝往路のテレビ鑑賞。

箱根駅伝は6時間以上の長丁場中継だが、冷静に見ると、ほとんど変化がない。

外国人には、その面白さが絶対に伝わらない。

しかしテレビ局は、学校ごとにあれやこれやのネタを伝えて、視聴者を飽きさせない。

 

もう一つ、箱根駅伝の楽しみ方に、この番組で初めて披露されるコマーシャルがある。

今年もまた、各企業が嗜好を凝らしていたが、僕のトップ評価はトヨタ自動車

豊田章一郎社長が自らレースカーを運転しながら、俳優の香川照之トークするのだが、何気ない会話の中にもトヨタ車への自信のほどが伺える。

不祥事続きの日産に比べ、正月早々、経営トップがコマーシャルに出演するのは、トヨタの自信とヤル気の表れだろう。

今年のトヨタも大丈夫と確信し、どこかのタイミングでトヨタ株を買う積りになった。

 

翌二日は、箱根駅伝復路のテレビ鑑賞。

前日の往路は、どこが優勝するのかが関心の的だが、復路は、ほぼ前半を過ぎたころには、優勝校が分かってくてしまう。

むしろこの日の楽しみは、シード校争いの方だ。

シード権を取れるか否かは、来年のチーム作りが根幹から変わってくる(らしい)。

しかも箱根駅伝で、「町興し」ならぬ「学校興し」を画策する私大には、箱根駅伝に出場できるかどうかは死活問題で、受験生の数が倍半分も違う(らしい)。

優勝争いをする強豪校は毎年ほとんど顔ぶれが変わらないし、事前に予想できている。

しかしシード権の方は、将にやってみないと分からないし、大半の大学の駅伝部監督は、ハラハラドキドキの連続で胃が痛くなる思いだろう。

しかも優勝校の二位の差は、数分規模の大差になりがちだが、シード校争いは数秒、若しくは数十秒の大接戦が普通だ。

こちらの方が、よっぽど人間味が溢れている。

 

いずれにしても、他のことをやりながらみていても、不思議と番組に一体化できる箱根駅伝は、正月の退屈しのぎには最適だ。

選手の皆さん、ご苦労様でした!

企業城下町、学校城下町

企業が支払う、固定資産税で潤っている町は多い。

愛知県豊田市茨城県日立市企業城下町そのもので、名前まで変わってしまった。

僕が所属した会社も、某田舎県の某村に工場があったが、ここは「日本一裕福な村」として有名だった。

我が社と隣の会社の工場があるお陰で、村民の義務教育費や医療費はタダ。

我が社社員は飲み屋でも特別待遇で、いつでもどこでも〇〇社員と名乗るだけで、ツケで酒が飲めるほど信用があった。

 

仮にそんな企業が町から撤退でもしたら、税収入だけでなく雇用面でも大問題になる。

だから企業城下町では、必死になって企業を引き留めようと努力する。

以前にも書いたが、「大企業だから余裕があるはずなので、法人税を課税しよう」などは空理空論でしかない。

 

現在、僕の住んでいる町には、某大学が存在している。

都内の有名大学とは違い、偏差値もかなり低い、いわゆる三流大学だ。

しかし教育の中身はプアかもしれないが、一応は大学と名乗っている以上、キャンパスは広いし、それなりに学生もいる。

全国的にはほとんど無名の大学だが、それでも地域経済への貢献は実に大きいのだ。

 

しかし実際パッとしない大学だから、ご多分に漏れず学生集めが一苦労のようだ。

大学も知名度アップのためにスポーツに力を入れたり、新たな学部を作ったり、必死の努力をしているが、何せ少子化の時代なので、近い将来の定員割れが心配されている。

そんな苦労をしている学校が、例外なく取り組むのは、海外留学生招致だ。

お陰で我が家周辺にも、訳の分からない言葉を話す学生集団が徘徊している。

留学生がお国に帰った時、我が町の大学卒の資格にどれほど権威があるのかは知らないが、学校側は中国人を中心に留学生を集めて、何とか糊口を凌いでいるようだ。 

 

多くの企業も、人手不足対策で、同じように悩んでいる。

中小零細企業では、工場や施設を稼働させるための、必要最小限の人材にも事欠いていて、それが企業存続の危機とすら言われている。

ついては、なんだかんだと理屈をつけて、外国人労働者を雇っている。

コンビニの店員なんか、外国人がかなり増えているし、企業が研修生と称して外国人を雇っていることからも、労働力不足対策が喫緊の課題であることが分かる。

 

実際に周辺に外国人が増えることは、治安面では、懸念はあっても良いことはない。

その分、自治会の住人からは、不安な思いも漏れ聞こえてくる。

別段、具体的な危険に遭遇したわけではなくても、やはり外国人が増え、彼らが集団で動いていると、畏怖や違和感を覚えるからだ。

しかし現実は、企業も学校も、背に腹は代えられないところまで追い込まれている。

 

もしも僕の地元で、この学校が立ちいかなくなれば、町の根幹が揺らいでしまう。

それは、税収入が減ってしまうだけはない。

実は我が家周辺の自営業者は、その大半がこの学校の生徒相手で成り立っているのだ。

床屋も食堂も自転車屋も、学生が消えたら、途端に商売上がったりになる。

飲食店が「学割特価」と特別サービスするほど、ガクセイ様は大のお得意さんだ。

こんな店は、日本人でも外国人でも自分の商品を買ってくれるなら、国籍に無関係で全員が上客だ。

「外国人お断り」みたいな排斥意識など、絶対にありえない。

 

そして、こんな企業城下町、学校城下町は、日本の至る所に存在している。

全国の大学が、稼働率アップのために外国人を受け入れているのは、世間的には批判が多いが、当事者や関係者は、綺麗ごとなど言う余裕はない。

近所のコンビニが存続するためには、外国人労働力が欠かせない。

学校も然りで、外国人留学生でしか経営が成り立たないのなら、少々のリスクは覚悟して受け入れるしかない。

 

もしも自分が住む町に企業や学校があれば、住民は、何としてでも彼らの事業が持続できるよう、少々の不自由さは甘受しなければならない。

僕個人は、移民には反対意見の持ち主だが、最早、外国人を白眼視するのではなく、外国人との共生を考えざるを得ない時代のようだ。

嫌だけど、そんな時代になってしまった。

カルロス・ゴーンの逃走劇

カルロス・ゴーンが、レバノンに逃亡した。

年末の大ニュースとなったが、木箱に隠れて出国管理を通過したらしい。

スパイ映画まがいの脱走劇だが、一世を風靡した経営者が身一つで逃亡を図るとは、見苦しく情けないこと、この上ない。

 

盗っ人猛々しいのだが、ゴーンに言わせると、日本の司法制度は「有罪が前提で差別が蔓延し、基本的な人権を否定している」らしい。

よく言うよ! 

一体、どの口が言うのか!

木箱に入り、人目を憚りながらコソコソと逃げ出したカルロス・ゴーンにだけは、言われたくないモノだ。

 

そもそも今回問われている事件は、小悪党が仕出かした破廉恥罪だ。

公私混同の乱脈さ、カネに拘る意地汚さは、聞けば聞くほど嫌悪感が募る。

一時的にせよ、こんなダーティーカルロス・ゴーンを、名経営者と称えた日本の社会風潮が恥ずかしい。

僕にとってのカルロス・ゴーンは、ソフトバンク孫正義とイメージが被る。

孫正義は、当時の民主党内からですら退陣要求が出ていた菅直人を、自社の太陽光発電に役に立つからとの理由で「30年総理を続けて」とゴマすった。

案の定、その後の太陽光発電は、景気を足を引っ張り続けたが、ソフトバンクは初期の段階でボロ儲けをしている。

日本経済がどうなろうと、自社が儲かれば構わない孫正義と、個人の利益最優先だったカルロス・ゴーンは、文字通り同じ穴の狢だ。

 

今回のゴーン脱出に関しては、レバノン政府の関与すら噂されている。

レバノン国籍を持つカルロス・ゴーンは、レバノン政府とどんな司法取引をしたのかが気になるところだ。

もう一人、世界中に日本の司法制度を辱めた責任を痛感するべきヤツがいる。

弁護士の弘中惇一郎だ。

この弘中は、無罪請負人とか言われ調子に乗っていたようで、あれこれ屁理屈を並べ立て、カルロス・ゴーンの保釈を成立させた。

その挙句が、このザマだ。

当事者は「寝耳に水」などと、とぼけたコメントを出しているが、本来はカルロス・ゴーンを保釈させた弁護士としての管理責任があるはずだ。

「海外への渡航禁止」は、弘中が裁判所と折衝した結果の保釈条件だ。

それをミスミス逃亡されただけでなく、全くそんな兆候すら知らなかったでは、弁護士としては大問題だ。

更に、カルロス・ゴーンからは、日本の司法制度もボロクソに貶されている。

自らの大失態で、日本の司法の信用が失墜したのだから、名誉回復のためにレバノンに乗り込んで、カルロス・ゴーンを連れ戻して欲しいものだ。

 

いずれにしても、こんな犯罪者予備軍そのもののオトコが、日産自動車を私物化し、蹂躙していたのは事実だ。

日産自動車は、そんなカルロス・ゴーンを排斥することでの再出発を選択した。

しかしその直後に、後継経営者の西川廣人の不正経理処理が問題になり、社長を辞任する醜態を演じている。

どう見ても、カルロス・ゴーン時代の負の遺産が、日産自動車組織の隅々にまで染みわたっているに違いない。

 

僕は、小なりと言えども、日産自動車株主の一人だ。

そしてその損失金額は、カルロス・ゴーン日産自動車の経営者の不始末の所為で、小市民としてはそれなりのダメージになっている。

その分、カルロス・ゴーン日産自動車経営者に対して、腹立たしい思いをしている。

 

まだカルロス・ゴーンが、裁判で正々堂々と自分の主張を繰り広げれば、少しは救いになったかもしれないが、カルロス・ゴーンはサッサとレバノンに逃亡した。

日本の裁判では、到底無罪判決は無理と判断したに違いなく、恥も外聞もなく日本から脱走したのでは話にならない。

であれば、何とか経済制裁などをちらつかせる外交努力で、レバノンからカルロス・ゴーンを取り戻し、裁判でシロクロつけて欲しい。

そうでもしないと、あんな小悪党が、レバノンでのうのうと余生を過ごすことになる。

それは、腹が立って仕方がない。

明けましておめでとうございます!

 

ハテナブログで初めて迎える正月です。

今年も宜しくお願いします。

 

今年の干支にちなんだこの写真で、新年をお祝い申し上げます。

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ご存知、鼠小僧次郎吉

 

 

令和二年 元旦

                      サ~タリ・サラ~ム殿下

 

本年は、本当にお世話になりました!

ヤフーブログ時代から、仲良くしてきた皆さん

ハテナブログで、新たに知り合った皆さん

 

 今年は、大変お世話になりました。

 自分なりに、「質より量」精神で、

 「一日一記事」のノルマを課してきました。

 これは偏に、ボケ対策です。

 

 お陰様で、今年一年はボケずに過ごせました。

 これも全て、皆さんのお陰です。

 この歳になると、一年一年が勝負なので、

 来年も宜しく、ご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。

 

 

                            サ~タリ・サラ~ム殿下

 

 

弁証法的な生き方

若かりし頃、マルクスの思想に傾倒したことがある。

ご存知の方も多いと思うが、唯物論弁証法だ。

 

これは、基本はヘーゲル弁証法と同じ。

テーゼにアンチテーゼをぶつけ、そこから新たなテーゼを止揚Aufhebenするものだ。

マルクスによると、ヘーゲルとの違いは、ヘーゲルのそれは観念論であり、究極は神様の判断を仰ぐものだが、マルクス弁証法は、全てを科学で解明するとした。

往時の科学者にマルキストが多かったのは、彼らがこのマルクスの科学万能唯物論弁証法に魅かれた所為だ。

因みに、ノーベル賞を受賞するほど著名な科学者が、政治的に頓珍漢発言を繰り返す例が散見されるが、それはこの学者が依然として唯物論弁証法の呪縛から逃れられていないからだ。

ノーベル賞を受賞するくらいだから優れた人と思うのは、素人の浅はかさ。

専門分野では特異な才能を発揮するが、他の方面は幼稚なバカの典型なので、彼らが言う事をありがたい説などと、崇める必要などサラサラない。

 

しかし、いくら科学が進んでも、どうにも解明できない部分がある。

例えば宇宙はどう出来たのかを考えると、やれビッグバンがとか、宇宙の始まりへの科学的説明は多々あるが、そもそもその前は、更にその前の段階はどうして出来たと問われると、絶対的な神様がお創りになったと納得せざるを得ない。

人間の起源はと問われ、サルからの進化は簡単に理解できるが、ではそのサルは、その前の生物はと解明していくと、一番最初は神様がお創りになった理解する方が早い。

マルクスがアヘンと攻撃した宗教が、科学の進歩と共に消滅するどころか、ますます人の心をとらえ続けているのも、唯物論弁証法の限界を証明している。

 

閑話休題

 

僕の人生は、こんな弁証法的生き方の具体的な実践と重なってくる。

と言うと、如何にも勿体ぶって聞こえるが、実は僕は、何か問題を説明されると、必ずそれとは違った面からの見方をするに過ぎないのだが。

 

具体的には、「あなたの主張は斯く斯く然々だが、相手は逆にこう思っているのではないか」と、必ず違った角度の見解を確認するのだ。

これは、一方からの見方は危険で、絶対に別の意見の検証が必要との信念からだ。

 

仕事をする上では、実に効果的だ。

顧客とのトラブルが発生すると、どうしても我田引水の現状分析になりがちだし、唯我独尊の結論になりやすい。

自分たちに都合の良い方向で分析し、自分たちが不利にならないような結論を求める。

誰もが不利な結末は避けたいので、自分のテーゼに拘ってしまうのだ。

しかしトラブルの相手もまた、同じような思考なので、双方が声高に自分の主張を繰り返し、なかなか合意点を見出せない。

そこで、相手の立場に立ってアンチテーゼを考えてみれば、自分たちの弱点も分かって来るし、相手の間違いにさえ気が付くこともある。

 

ところがこんな対応は、理屈の上では成程感があるが、実社会では思わぬ反発を招く。

我が妻がその好例で、「あなたは私の考えを悉く否定する」と猛烈に腹を立てる。

いくら「そうではなく、君の考えをより正しく理解するためには、アンチテーゼが必要だ」と説明しても、毎回自説を否定されているようで、不快感が募るらしい。

妻の立場は、「屁理屈はどうでもいいから、私の言う事を、黙ってハイハイと聞いてほしい」なのだ。

こうなると、弁証法がどうのこうのではなくなり、今度は慌てて謝罪とゴマすりに変わらないと、夫婦喧嘩に発展してしまう。

 

弁証法に基づく、合理的、理論的な生き方も、家庭だけでは偏屈もの扱いされる。

理屈っぽさは、現実の妻の力の前には弱者でしかない。

薬漬け人生

我が家の隣のオジサンは、八十数歳にして実に矍鑠としている。

80歳まで大手企業の監査役を務め、数年前にやっとリタイアした御仁だ。

その時、「最後はクラウン」のキャッチコピーの如く、最高級トヨタクラウンを購入。

ほぼ毎日、そのクラウンを駆ってあちこちに出かける元気爺さんで、僕なんかは、「十年後はあんな年寄りに」とすっかり憧れている。

 

井戸端会議で妻がその奥方に、「お宅のご主人は、ホントにお元気で」とご追従を言ったら、意外な返事が返ってきたらしい。

「ウ~ン、違うのよ、毎日バケツ一杯ほど薬を飲んでいるの」

バケツ一杯は大袈裟としても、かなりの薬漬けは間違いないようで、あの元気の源が大量の薬のバックアップの所為とは、少々驚いたものだ。

 

ところが、昨年以降の僕もまた、隣の元気爺さん並みになってしまった。

昨年6月、総合病院で心臓疾患が判明し、即手術か否かの判断を迫られた。

その時は、担当医者が処方箋を間違えるような全く頼りないオトコだったので、手術とを勧められたが「御免蒙る」と回答したので、投薬治療となった。

そこで採用されたのが、血圧を下げ、心臓への負担を軽くする利尿剤治療だった。

ただこれが思いのほか効果があり、10日後には最悪時は強制入院直前だったBNP値が、医者も驚く半分以下になった。

そしてその後も下がり続け、最終的には健常人に近いレベルまで改善された。

 

と、ここまでは順調だったが、やはり完治には手術が必要だと説得され、担当医も変わったことから、昨年11月に入院手術をすることになった。

この手術も成功し、一番不安視していた後遺症もなく、わずかに二泊三日で無事退院となったが、この時以降、何と毎日11種類の薬を飲まないといけなくなってしまった。

毎朝、食後に11種類の薬を飲むとなると、その管理だけでも大変だ。

歳と共に忘れっぽくなっている身で、飲み忘れがないように、毎日細心の注意を払わなければならない。

医者から「一年後に再検査して、問題がなければ薬は減る」と言われ、それを楽しみに、海外旅行の時差調整などもこなし、PTPシートから薬を取り出す順番に自分なりの工夫をこらして、やっと一年後の検査入院にまでこぎつけた。

ところが、結果は極めて良好だったにも拘らず、一年後に減った薬はわずかに一種類。

そして今後死ぬまで、10種類の薬を飲み続けなければならないらしい。

何とも情けないし、煩わしい。

 

しかも、退院時に総合病院から70日分も渡された10種類の薬の中には、一日一錠ずつ服用の普通の薬が七種だが、二種類は一日半錠、一種類は二錠と、その服用数の管理だけでも一大事だ。

薬局に問い合わせると、「病院所有の薬の成分濃度で、ややこしい投薬指示になっているが、我が店の在庫薬なら、全て毎日一錠ずつ服用ですむ」とのこと。

しかし70日分を捨てるわけにもいかないし、何より、その店で薬を購入するにも医者の処方箋が必要だ。

そんなわけで、正月明けの診察以降は、少しは薬の管理が楽になるが、総合病院には、ロクに薬の在庫を抱えていないことも判明した。

餅屋は餅屋、薬のことは薬屋。

 

いずれにしても、古希を迎えた途端に、隣の元気爺さんみたいな薬漬け老後を迎えることに相成った。

前向きに捉えれば、これで更に10年くらいは、生きる可能性があるとも言える。

強がりだけど、そう思えば、毎日飲まなければならない10種類の薬も、命をつなぐ頼もしい存在に見えてくる。