アフガニスタンで医療や灌漑のボランティア活動中だった中村哲医師が、現地武装グループに襲撃され、殺害された。
遺体を日本に送り出す時、ガニ大統領自ら棺を担ぐほど、アフガニスタンから感謝、尊敬されていた人物だ。
実際に彼の成し遂げた成果も、アフガニスタン国民の生活に多大な貢献を施している。
将に、日本が世界に誇るべき、素晴らしい人材だったことは間違いない。
謹んで、お悔やみを申し上げる次第だ。
Facebookで、「中村医師が護憲派だったため、憲法九条では命を守れないとか、人の死までも憲法九条と絡める方がいる」と批判する投稿があった。
中村医師が古希を過ぎても尚、危険を承知で医療、灌漑活動に取り組んだことに、アフガニスタンのトップ自らが、最大の敬意を払い哀悼の辞を述べたのに、このような偉人の業績ではなく、憲法九条問題を持ち出すこと自体が不謹慎極まりないとの指摘だ。
言いたいことは理解できる。
勿論、中村医師の業績を批判したり否定している人間は、日本人にはいないはずだ。
しかし、アフガニスタンでは利害関係が複雑なので、中村医師の活動については圧倒的多数の人から感謝されているだろうが、ごく一部には苦々しく思う輩もいて、そんな連中が今回の凶行に及んだものだ。
ただ、この人が崇高な意欲の持ち主で、高邁な人品骨柄の人であったことと、彼が憲法九条の信奉者だったことは別問題だ。
中村医師は、身の危険が懸念されるアフガニスタンで活動することについて、「憲法九条があるから大丈夫」と語っている。
そのインタビューでは、自分たちの行動は、アフガニスタン人からも大変感謝されているし、素晴らしい憲法九条の理念を理解した人たちは、決して自分たちを攻撃することはないと確信している様子が伺える。
中村医師の死亡と憲法九条を絡めて論じている人たちは、この中村医師の発言が、余りにも現実的ではないと指摘しているものだ。
これは中村医師の業績とは無関係で、憲法九条肯定派と否定派との見解の違いなのだ。
憲法九条否定派は、例えば困難を克服して世界一になったアスリートの偉業は称賛しても、その人が「憲法九条が日本を守ってくれる」と発言したら批判する。
芸能人もそうで、美人で人気が高くても、その人が憲法九条を礼賛すれば、それは批判の対象となる。
あるいは、ノーベル賞を受賞するほどの偉大な発見で、数多くの病人の治癒に貢献した人でも、国防への意見が違えば、もっと多数の日本人が犠牲になる可能性があるので、辛辣な評価を下さざるを得なくなる。
これは逆も然りで、憲法擁護派にとっては、例えオリンピックの金メダリストであっても、その人が「国防のために改憲が必要だ」と発言した途端、激しい憎悪と批判の対象になってしまう。
Facebookの投稿者は、称賛されるべき中村医師が非業の死を遂げたと言うのに、「憲法九条では自分の命さえ守れなかった」と揶揄されるのが我慢ならなかったようだ。
しかし、日本人にも十人十色の意見が存在している。
そんな中で中村医師のように、意見が分かれている憲法九条について政治的意見を吐けば、必ず賛否が分かれ、反論もされる。
僕もまた、中村医師の憲法九条擁護には、多いに疑問を持っている。
しかし逆に言えば、憲法九条否定派からいくら批判されても、それは国防に関しての意見の違いでしかなく、中村医師の世界的業績は不滅なのだ。
また中村医師は、我が郷土の英雄でもある、
憲法改正派の僕も、中村医師の逝去には、謹んで哀悼の思いだ。