スタンダールの「赤と黒」は、野心的で有能な庶民である主人公が、貴族社会の中で恋愛に挫折し、結果として死刑判決を受ける。
暗くて、さして面白くもない小説と思っていたが、サマセット・モームが「世界の十大小説」と評価していることを知った。
当方の「白と黒」は、そんなスタンダール小説に似ているのはタイトルだけ。
中身は全然違うし、格調の高さ、文学性などは雲泥ところか、雲糞の差がある。
(誤解なきよう、念のために申し添えるが、雲はスタンダールの方)
アメリカでは、昨今の黒人差別反対の動きが、BLM運動として過激化してきた。
暴動や略奪ならまだマシの方で、シアトルではとうとう殺人事件にまで発展した。
一部地区ではあるが、アメリカは「内戦状態」と不安視される事態で、鎮圧のために、トランプ大統領は軍隊投入まで示唆した。
アメリカの保守派は、BLMは単なる黒人差別反対ではなく、アメリカ体制そのものを否定する、反体制運動と見做している。
確かにBLM側は、白人に対してホワイト・ギルトの自虐史観を強要している。
建国の英雄、ジョージ・ワシントン初代大統領の功績も、過去に黒人奴隷を所持していたからと否定し、銅像を毀損したり、歴史的評価の見直しを要求している。
まるで歴史の書き換えを進める、韓国の文在寅みたいなものだ。
今の価値観で昔を裁くのは如何なものかと思うが、韓国の反日火病と、アメリカの黒人差別問題は、両国が抱えた宿痾の病であることは間違いない。
そんなアメリカの運動が、妙な具合に、日本に影響を与え始めている。
長らく鎖国状態で過ごしてきた日本人にとっては、外国人はほとんど遭遇したことのない、宇宙人同様の人種だった。
僕の小学校の頃は、外国人を見ただけで「ガイジンだァ」と大騒ぎする有様だった。
中でも黒人は、白人以上に身近にはいなくて、テレビのスポーツ番組で黒人選手を見る程度だったので、会おうものなら物珍しさの余り、失礼にもジロジロ眺めたりした。
しかし、黒人を奴隷扱いした歴史はない日本人には、黒人への差別意識はない。
ダッコチャンが大ブームになっても、チビクロサンボが人気アニメで放送されても、日本人の中に黒人への差別感など皆無だったはずだ。
但し、全く無意識に使う日本語に、「白は正義、黒は悪」の意味のモノがある。
これは、白は他の何色にも染まる無垢の色で、穢れがないと思われてきた一方で、黒は全てを吸収しても変わることがないので、不気味な力強さを感じさせるからだ。
勝ちは白星で負けは黒星、黒歴史、ブラック企業、ブラックリスト、腹黒い、お先真っ暗等、その手のニュアンスを伝える言葉は多い。
松本清張の小説に、「黒の福音」とか「黒い画集」があり、週刊新潮の名物コーナーにも「黒の事件簿」があるが、いずれも後ろめたさややるせなさを黒に託している。
その止めが、「白黒をつける」で、これは善悪をはっきりさせる時の表現で、内容は正義の白と邪悪な黒が前提となっている。
こんな悪いイメージが連想される「黒」は、早晩言葉狩りの憂き目にあいそうだ。
しかし繰り返すが、これは差別意識から使われてきたものではない。
その証拠に、黒の方が良い意味に使われているものもある。
例えば目は白が悪くて、黒の方が良いイメージで、白目を剥くや白眼視は嫌な場面で使われ、つぶらな黒い瞳の方が圧倒的に褒め言葉だ。
緑の黒髪もそうで、白髪は老人の代名詞なので、若さをアピールするためには、どうやって隠すかと悩まれ、わざわざ金を出して黒色に染めたりもする。
アメリカ人が、否定的イメージのBlackを変えようとするのは、彼らの勝手だ。
彼らが、Black listをAlart listとでも言い変えたら、我々もカタカナでアラートリストと言えば良いだけの話だ。
しかし本来、全く差別意識のない日本語まで、英語に倣ってBLMに諂う必要はない。
日本語は日本語だ。
正々堂々と、「白黒をつけよう」と言い続けて、白黒をつければ良い。