昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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生きることと死ぬことの境界線

人間は必ず死ぬ。

人間だけではなく、生き物には全て寿命がある。

「鶴は千年亀は万年」と、鶴亀を長寿の代表のように言うが、彼らでもいつかは死ぬ。

それが、生きとし生きるモノの宿命だ。

 

人間は、鶴亀に比べると早死にだ。

最近は医学の発達でなかなか死ななくなっているが、それでも80歳を超すと秒読みが始まる。

不老不死は、中国の秦の始皇帝ですら達成できなかった。

人類が、絶対に見果てぬ夢だ。

 

日本は世界一の長寿国で、平均寿命こそ80歳半ばだが、100歳超もゴロゴロいて、90歳など鼻タレ小僧扱いだ。

そんな長寿国でも、敬老の日になるとギネス記録保持者で110歳を遥かに超える猛者がテレビに登場する。

番組は称賛と激励の嵐で、高齢者の健康の秘訣を聞きたがる。

 

ただ、今まで見たご長寿たちは、悉く椅子に座っている。

しかも、耳が遠い。

番組では、車椅子に座ったご長寿の耳元で、家族が「オジイチャン、皆さんが元気なのに感心していますよ」と叫ぶように大声を上げる。

ご長寿が「ウグウグ、モゴモゴ」と口を開くと、すぐに家族が「ありがとうって言ってます」と解説する。

ホンマかいな?だ。

 

自分の足で動き回り、相手の言うことを聞き取ることができ、且つ言いたいことが伝えられる老後なら大歓迎だ。

その中の、一つが不自由になるくらいなら、どうってことない。

しかし三拍子揃ってしまうと、何を楽しみに生きていけばいいのか。

増してや、寝たきりだけど点滴だけで息をしていても、生きがいも喜びも、悲しささえ感じないだろう。

家族には、不幸にもそんな状態になったら、無理して長生きさせてもらわなくて結構だと伝えている。

 

永遠の命などない。

若いころは元気溌剌で、寿命などを実感しない。

しかし歳を取ってくると、そうはいかない。

死が、極めて身近に感じられるようになるからだ。

誰もがいずれは、死と直面しなければならない。

 

僕は、死ぬとは眠りから覚めないことと思っている。

実は毎日毎晩、我々はいったん死んでいる。

眠りこんだ状態では、何の意識もない。

たまたま、翌日に目を覚ませば、生き返ったことになる。

そんなことを繰り返している中で、人間にはたった一度だけ、眠ったまま起きてこないことが起きる。

しかもそれは、必ず起きる。

それが死んだことだ。

朝になっても、意識が回復しないことをご臨終と思えば、死ぬことはさほど怖くはない。

 

 

死ぬ恐怖から逃れるために、宗教に縋る人たちも多い。

初めて夫婦で海外旅行したのは、インドネシアのバリ島だった。

現地で雇ったガイドは、敬虔なバリ・ヒンドゥ教徒だった。

聞くと、年収の三分の一は神様への捧げモノに使うと言う。

「生活は苦しくないの?」と質問すると、「イヤ、全然」と笑顔だ。

彼によると「神様が、死後の人生を約束してくれている」らしい。

「だって、生きている間より、死んだ後の人生の方が、ずっと長いでしょ」と自信満々だ。

死んだ後に「人生」があるのかは分からないが、現世の苦労を逃れるのに、神様を頼りにするのも分かるような気がする。

 

僕はバリ・ヒンドゥ教には全く無縁で無理解だが、民族それぞれに神様が存在して、死の不安を和らげている。

熱心な無宗教徒であり、敬虔な無神論者の僕は、死とは眠ることの延長線と思って、気楽に生きることにしている。