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オウム真理教死刑囚処刑に反対する理屈が分からない

僕は松サリン事件の被害者、河野義行さんを尊敬していた。
河野さんは、被害者で第一通報者にも拘らず、警察からは度々取り調べを受け、何よりもマスコミからは挙って犯人扱いされた。
後に事件がオウム真理教の犯行と分かったが、河野さんは自分を犯人扱いしたマスコミに決定的な不信感を持ち、「自分にとっては、オウムもマスコミも同罪だ」と批判していた。
この時に、河野さんをほぼ犯人と断定して報道したのが、当時のTBSアナウンサーだった杉尾秀哉だ。
杉尾はその後、河野さんの地元、長野から立候補して当選したが、この選挙中、河野さんは遠慮がちながら、杉尾に対する不信感を隠さなかった。
 
河野さんはその後も、サリンの後遺症で植物人間になってしまった奥さんを、14年間に亘って甲斐甲斐しく介護してきたが、一方ではオウム真理教の信徒たちとも交流している。
犯人たちの死刑にも反対だったようで、死刑が執行された時にも「何故このタイミングなのか?」「事件の真相を聞く人がいなくなった」と疑問を呈していた。
僕は河野さんを人間的に尊敬してきたが、この河野さんの意見には残念な思いがしている。
オウム真理教の犯行で長期間に亘り冤罪に苦しんだ河野さんでさえ、犯人たちの死刑を望んでいないと言うことは、一連のサリン事件を引き起こしたオウム真理教の犯人たちの処刑を引き延ばしたい連中の格好の理由付けになるからだ。
 
僕は、敢て河野さんに問いたい。
「なぜこの時期に処刑?」と言うのなら、では貴方はいつなら納得するのか?
 
この手の事件では河野さん同様に、往々にして「再発防止の為に真相究明」が主張される。
今日の産経新聞でも、ジャーナリストの藤田庄市氏が「宗教的背景の検証が必要」と訴えていた。
彼によると「オウム真理教の本質を見誤った」らしく、教徒たちが麻原彰晃に強く帰依していることを過大評価したかのような反省の弁だ。
このままでは、カルト教の犯行が再発するとの警鐘も鳴らされている。
他にも、オウム真理教を礼賛した宗教学者の島田裕己や、好意的に番組で取り上げた田原総一朗北野武とんねるず、TBSを始めとするマスコミ達は、自分達の行動が結果としてオウム真理教の勢力を伸ばしたのだから、自らその責任を追及し、反省するべきなのは当たり前だ。
しかしこの連中は揃いも揃って、そんな自分たちの過去などまるでなかったかのように振る舞っている。
 
また高学歴者の信徒たちが、いとも簡単に麻原彰晃に心酔したのかの解明が必要との意見もある。
しかし今でも多くの大学には、テロ団体と認定されている過激派に参加する学生が後を絶たない。
現実に不安と不満を持つ若者はどんな時代にも存在し、前後の見境もなく、常識では考えられない過激行動に身を投じる。
いくらそんな彼らの心理を理解しても、あるいはその背景を掘り下げても、完全無欠な世の中などあり得ないのだから、不満分子を一掃するなんてことは不可能だ。
「なぜ今?」にしても、「真相究明が不十分」にしても、その意見は実際には、死刑判決を受けている犯人たちの延命に手を貸すに過ぎない。
 
サリン事件に関しては、既に事件が発生して23年、死刑判決が確定して12年が経過している。
その間、膨大な労力をつぎ込んで証拠が集められ、取り調べが行われた。
検事側と弁護側の双方とも、主張は尽きたはずだ。
その結果の判決なのだが、僕には主張が通らなかった弁護側が、次の一手で処刑を伸ばすための時間稼ぎとして、「未だ真相究明が不充分」と、再審請求しているとしか思えない。
しかし10年以上の裁判で真相究明したのに、更に時間を掛けても、死刑を免れる決定的な新証拠など出てくるわけはない。
弁護側もそれは分かっていて、抽象的な「事件の背景」などに焦点を当てることで、処刑引き延ばしを図る。
しかし多くの被害者にとっては、「それはそれ、早く犯人を処罰してほしい」と言うのが本音だと思う。
 
どれほど犯罪心理の研究が進んでも、世の中から犯罪がなくなることはない。
河野さんは、「オウム真理教の死刑囚たちは、実際に会うと清々しい連中が多かった」と話している。
僕も過激事件に身を投じた連中を知っているが、彼等もまた純粋に世を憂い、矛盾解決に熱心だった。
それが、間違った理論を信じ、間違った方法で世の中を変えようとしたばかりに、犯罪者として追われる立場になった。
そんな彼らが、何故事件を起こしたかを究明した積りでも、それは表明的な理解に過ぎないし、仮に分かったとしても、その苦境から全員を救い出す手段などあるはずがない。
各々の利害が複雑に絡み合う現実の社会では、再発防止の決定的な処方箋なんてないからだ。
 
事件の本質とか真相なんて、マスコミや学者が勝手に結論付けているだけで、それが真実かどうかは、いつの時代でも分からないものだ。