昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

日頃の思いや鬱憤を吐露!無礼千万なコメントは削除。

自分が嫌だったことは、他人にしてはいけない

「親の小言と茄子の花は、千に一つも仇(無駄)はない」

 

「親の言うことをよく聞け」との格言、箴言だ。

確かにこの歳まで生きると、この言葉の意味の深さを痛感する。

「あの時親父はこう言った」とか、お袋から叱られた時のことを思い出したりするからだ。

何かと小うるさい両親だったが、全ては子供を思ってのことだった。

自分が味わった苦労や無念さを、子供には経験させたくない気持ちだったのだろう。

「子を持って知る親の恩」

そんなことに思いが至ると、改めて両親や家族に感謝の気持ちだ。

 

これと同じことが、会社の先輩たちの教えにも言える。

先輩諸氏は、伊達や酔狂で、仕事の苦労をしてはいない。

しかも、彼らが経験的に学んだ事例や教訓は、仕事だけでなく、間違いなく人生哲学にもなりうる。

 

そんな中でも、

「自分が嫌だったことは、他人にしてはいけない」

は、実に印象に残った言葉だった。

 

同じ会社の同じ組織に所属する会社員なら、全員が企業利益の最大化を目指す運命共同体のはずだ。

しかしその人数が多ければ多いほど、様々なキャラの持ち主がいる。

目的は同じでも、そこに至る方法も、考え方も違うことがある。

同じような考えで馬が合うとか、親近感を覚えると仲良くなるが、逆の場合は、さしたる理由もなく疎遠な関係になる。

しかし職場は、仲良しクラブではない。

会社の命令一つで、反りが合わない人とでも、否応なくチームと組まされることがある。

 

一般論だが、そんな緊張関係がある方が、お互いの刺激になって仕事の成果を上がることもあると言われる。

しかしそれが思いもかけないシナジー効果となるのは、同資格の同僚との場合に限られ、上下関係の場合は悲劇しかない。

上司の場合、尊敬に値する人品骨柄の人物がいることもある。

しかしそれ以上の確率で、意地悪で鼻持ちならない人もいる。

僕の経験で言えば、普通の会社員の場合は、上司に恵まれたと言える職場の連続年数は、三年間が上限だ。

その後は、またもストレスフルな職場環境に戻ってしまうと、腹を括っている方が無難だ。

 

そんな職場で、ドンくさいヤツは、基本的に上司から煙たがられる。

そんなヤツに、上司にすればば教育的指導を施している積りでも、傍からはイジメに見えてしまうことがある。

そんなことが日常化すると、当のドンくさい本人が委縮するだけでなく、周囲も気を遣うので、職場環境が悪くなる。

仕事ぶりが不満だから、教え諭していると分かれば理解できる。

だが、いわゆる肌が合わないだけの理由で、意地悪をされたら、本人も周囲も、たまったものではない。

 

これはどう考えても、パワハラだ。

最近は「パワハラされた」と訴え出ればすぐに社会問題となり、労働基準局から改善命令が出る。

これでパワハラを止めさせることはできるが、その場合は、継続して同じ職場で働くことがなかなか難しい。

会社員がパワハラを訴え出るのは、決して低いハードルではない。

やはり上司が「パワハラは絶対にしない」との意識改革が必要だ。

 

自分が嫌な経験をしてきたのに、上司になった時、後輩に思いが至らない人がいる。

こんなことを諫めるのが、先に先輩から聞いた「自分が嫌だったことは、他人にしてはいけない」との教えだ。

これが出来れば、自分の負の経験が、組織的にはプラスに転化されたことになる。

 

今話題のYouTube貴闘力チャンネル」で、相撲部屋の先輩、後輩のしきたりやイジメを紹介している。

面白かったのは、先代貴乃花藤島部屋では、親方の息子の若貴(勝と光司)が入門した時に、付き人制度を止めたことだ。

その理由は「今の時代、自分のことは自分でやるべき」との、相撲部屋改革の端緒となる美談になっていたらしい。

しかしその実態は、先代貴乃花は、息子二人が先輩力士の付き人として、牛馬のようにこき使われるのも良しとしなかったに過ぎない。

当然先輩力士からは、不満が噴出する。

しかし貴闘力は、結果的に自分のことは自分でやる習慣が身に付き、その後の社会人生活に役立ったとの見解だ。

 

ここまではとってもいいハナシ、なのだが……

 

何と先代貴乃花は、息子が十両に上がり関取になったら、付け人制度を復活させたらしいのだ。

貴闘力は、引退後の若貴が何かとトラブルをhき起こすのも、この先代貴乃花の親心が逆効果だったと見ている。

兄弟とも、他の力士が味わった苦労をせずに、ヌクヌクと育ったことがトラブルの遠因だと解説していた。

 

これは、自分が嫌な思いをすることが、マイナスだけではなく、プラス面もあることを表している。

苦労が、人格を磨くことがあるからだ。

いつも思うことだが、苦労などしない方が良いに決まっている。

しかし、そんな自分が嫌だった苦労で、却って人へのやさしさを覚えることもある。

先輩の言う「自分が嫌だったことは後輩にするな」は、自分の人格を磨く言葉と同時に、組織を活性化させる教えでもある。

涙を拭いて韓国にサヨナラ

文在寅とバイデンの電話会議が、やっと実現した。

先ずは「良かった、良かった」だが、どうもバイデン新政権と韓国はあまり良い関係とは言えないようだ。

 

そうは言っても、今迄の韓国の傍若無人さを見れば、普通に考えればこうなることに何の不思議もない。

韓国に呆れ果てているのは。何もいつもイチャモンをつけ続けられている日本だけではないのだ。

日本への嫌がらせなど序の口で、イランへの原油代未払い、ニュージーランドの大使ホモセクハラ事件、違法瀬取り北朝鮮支援など、韓国が仕出かしているバカバカしい国際事件は枚挙の暇がない。

韓国内もまた、北朝鮮批判ビラ禁止、行政の司法への不当干渉、慰安婦団体の寄付金私的流用など、到底真面な国とは言えない。

その止めが、習近平に対して文在寅が、中国共産党設立百周年の祝賀電話をしたことだ。

少なくとも自由主義国家を標榜する国の代表が、世界に災厄をもたらしている、全体主義共産党を祝福するとは前代未聞だろう。

世界中が中国と中国共産党への危惧を抱く中で、文在寅と韓国の中国への前のめり姿勢は異常だ。

しかし、夜郎自大で「天上天下唯我独尊」の、お釈迦様の生まれ変わり気分の文在寅と韓国人には、何の疑問もないかもしれない。

 

ただ韓国は、バイデン新大統領との電話会談は、日本の菅義偉首相との電話会談以降、ウンもスンもない状態で一週間待たされた。

さすがの文在寅も、不安があったようだ。

竹下夢二風に言えば

  ♫待てど暮らせど来ぬ便り

  ♫ムン待ち顔のやるせなさ

  ♫今宵も電話なさそうな

それでも青瓦台は「いつ電話があったかではなく、電話の中身が大事」と強がっていた。

しかしやっとのことで辿り着いた米韓電話だが、肝心の中身について両者に齟齬が発生している。

アメリカ・北朝鮮の早期首脳会議を望む韓国と、先ずは圧力路線のアメリカの間に、深刻な認識の差があるからだ。

日本には有難迷惑だが、米韓は日米韓の関係強化で一致したらしい。

マァ、韓国の我田引水は、今に始まったことではなく年中行事だ。

アメリカのバイデン大統領への名刺代わりとして、文在寅の人柄や韓国の奇妙奇天烈ぶりが良く伝わっただろう。

 

しかしその割りには、懲りない韓国は日本の位置づけを「パートナーから隣国」にランクダウンした。

断っておくが、パートナーとは、極めて重要な位置付けの立場にいる人、組織との関係を表す。

人生のパートナーと言えば、夫婦関係を示す。

仕事のパートナーとは、運命共同体の顧客や、共に事業活動の成功を目指す同僚や仲間を指す。

キャディ以外の味方が許されないゴルフの場合のパートナーとは、二人一組の対抗戦で情報を共有化し、協力して戦う仲間のことだ。

国家間のパートナーは、国家価値観を共有する仲間のことだ・

両者の間に不信感や仲違いがあれば、端から勝負にならない。

 

韓国が日本を、それほど重要なパートナーと位置付けているとは。不肖私メ、浅学菲才にして知らなかった。

日韓が、そんなパートナー関係だと知らないのは、罪万死に値する。

誠に面目ない。

「醜女の深情け」とは絶対に思わないし、口に出してもいけない。

(因みに「醜女」も変換不可になっているが、あくまで一般的表現であり、韓国を特定してのモノとはないので、念のため………)

 

とは言うものの現実問題として、我が日本側の方は、韓国をパートナーと見做しているとは、寡聞にして知らない。

「韓国が隣国であるから仲良くするべき」との意見もあるが、当方はこの意見にも与しない。

日本と韓国は、海を隔てて存在している国同士に過ぎないからだ。

それでも韓国が日本の隣国と言うなら、アメリカも隣国になる。

カナダやフィリピンだって、隣国扱いしなければならない。

 

だから韓国は、元よりパートナーではないし、隣国でもない。

単なる、海の向こうの、ややこしい国でしかないのだ。

噓つきで陰謀国で、人の悪口ばかり言っている嫌われ者でしかない。

そこの国民全員が、反日と言っても過言ではない。

世界中探してもこんな国は、韓国と中国を置いて他にない。

油断も隙もない、いやらしい国なのだ。

無理して付き合う必要もないし、付き合うほどに足を引っ張っられ、いつも寝首を掻かれる心配が必要な国だ。

 

今回、韓国の方から、日本は格下げ処分を喰らった。

しかし、ここはやむを得ないと、気持ちを切り替えた。

斯くなる上は、韓国抜きでの外交体制を急がなければならない。

幸いにしてバイデン新政権も、日本にインド・オーストラリアを含めたクワッド体制に理解が深い。

これには、イギリスも参加する構えだ。

 

ここに韓国がいないのは大変「寂しい」が、韓国が中国についていく以上、涙を拭いてサヨナラだ。

韓国に特別な思いを持ってきた僕には、これは大変「辛い」決断だ。

だけど元々、韓国がパートナーだったなんて、知らないよ~ダ!

絶対評価と相対評価

我々俗物の不満の代表的なものが、自分の評価に対してだ。

わずかには、自分の評価を満足している人がいるかもしれないが、恐らくは90%以上が「自分は正当に評価されていない」と、不満タラタラのはずだ。

これは全て、評価が相対的なことに起因する。

 

実績や人物に対する評価には、絶対評価相対評価がある。

絶対評価は、その人が成し遂げた実績を、明らかに形として評価するか、数値化できるものだ。

学校の成績や偏差値なども、分かりやすい絶対評価だ。

陸上競技や水泳のように、タイムや、飛んだり投げたりした距離や高さに差があれば、文句の言いようがない。

卓球やテニス、バドミントンなどの球技も、決められた時間やラウンド内で、決められたポイントを取った方が勝ちなので、勝ち負けの評価は誰の眼にも分かりやすい。

ボクシングとなると、鮮やかなKOで片が付けばよいが、判定に持ち込まれるとジャッジの主観が入ってくるので、何かと物議をかもす。

特にアマチュア競技は、危険防止でKO決着となりにくい。

そこで判定になると、元ボクシング連盟会長、山根明の出身だった奈良の選手に有利判定が続いた、所謂奈良判定疑惑などが囁かれる。

元会長自身も「どっちか分からん場合は奈良やなァ、そうじゃなきゃナメとるかってなる」と話していたから、奈良判定は事実だろう。

プロボクシングで、ホームタウンデシジョンなどはごく普通に存在していたので、相手地元で勝つにはKOが絶対必要と言われてきた。

 

スポーツ競技でもこんな調子なので、会社員の社内評価など実にいい加減なものだ。

こちらは、相対評価の権化だからだ。

人事側も試行錯誤して、可能な限り評価基準の数値化を考えている。

しかし、売上げや購買価格の値下げなどは分かりやすいが、総務や人事が社員の労働環境整備をしても、どうにも数値化できない。

結局は、上役の匙加減一つになり、そこには個人の主観が入り込む。

会社の人物評価ほど、難しいモノはない。

 

日本の場合は、それでも腹芸が通じる。

低評価の人物に「君は幹部候補生だから、今回は我慢してくれ」なんて説得は、どう考えても無茶苦茶論理だ。

だが不思議なことに、説得される方は、これで納得したりする。

これが外国になると、そうは問屋が卸さない。

適当な口実など、絶対に通用しないからだ。

評価の差を、具体的に説明して納得させないと、すぐに退社する。

外国人従業員をマネジメントする日本人役職者の一番の悩みは、昇給昇進時の人事評価を、社員に通告することだ。

 

日本人は、絶対評価が低くても我慢するが、相対評価には結構拘る。

そのほとんどは「あいつよりも何故評価が低いのか?」との不満だ。

人間は、自分にはハネ満、倍満の大甘評価なのに、他人、特にライバルには良くて半分くらいの激辛評価なのだから、話にならない。

そんな我田引水評価の結果「アイツが自分よりも上の地位に就くなんて」とか「何故アイツの給料が高いのか?」と納得しない。

大抵の場合は、傍から見ると目糞鼻糞なのだが、当人は大真面目で悲憤慷慨する。

これも全て、相対評価の所為だ。

 

斯く言う僕も、不満族の塊だった。

人一倍自信過剰で、会社への貢献度は抜群と思っていた。

ところが実際の評価は、自分の思いの半分以下。

しかし典型的な日本人気質なので、敢えて理由を詰問したりしない。

泰然自若として受け入れるのが常だったが、その分ストレスは嵩む。

 

しかし、ある先輩の言葉が救いとなった。

「オーナー経営者は儲け第一なので、会社に利益をもたらす社員を評価するが、サラリーマン経営者は好き嫌いを最優先する」

確かに、会社ではこの傾向が強い。

それでも組織運営で何とか事業をやっていけるし、却って好き嫌いで抜擢する方が、却って成果が出ることも多い。

そもそも会社は、絶対評価が無理な世界だ。

 

絶対評価には文句のつけようがない。

相対評価は、常に賛否両論を巻き起こす。

しかし何でもかんでも、数値化して評価できるモノでもない。

公明正大な評価など、単なる美辞麗句に過ぎず、人間社会は一見不合理で納得できないからこそ面白い。

 

絶対平等を謡い、その実現を目指したはずの共産主義は、ないモノねだりの余りの理想主義で自滅し、後には弊害しか残さなかった。

実は評価への不満、不平もまた、社会活動を前進させる活性源だ。

 

森喜朗の失言と東京オリンピック開催

森喜朗がまたもやらかした。

よくよく聞くと、決して女性差別発言ではない。

森喜朗に好意的な側から見れば、全く取るに足らない発言だ。

しかし「女性が多いと会議が長くなる」とは間違いなく喋っているし、その部分を切り取られると騒ぎとなる。

今までも何度も繰り返された光景だが、本人には全く悪気がないし、サービス精神が旺盛なので、始末が悪い。

 

ただ、その後の謝罪会見にしてもテレビ生出演にしても、森喜朗は原稿もカンペもなしで、質問にも的確に答えている。

全く、ボケ症状はない。

しかも、並み居るIOC貴族の悪党たちと、差しでやり合える日本側の委員は、森喜朗をおいて他にいない。

何せ、賄賂や裏金、騙し合いが横行するIOCが相手だ。

IOCなど気取って入るが、崇高な五輪憲章の下に平和の祭典などを開催するには、最も不向きな連中が跋扈する世界だ。

腹黒い委員たちを相手に丁々発止やり合って、日本にとって好都合の条件を引き出せる委員が、森喜朗以外にいないのだ。

 

ちょっと昔の話だが、極めて印象的なシーンを思い出した。

ちょうど小池百合子都知事に当選した直後に、人気絶頂を背景にオリンピック会場を変えようと画策したことがある。

自民党森喜朗ブラックボックス呼ばわりし、その顔に泥を塗るため、小池はボート会場の決定プロセスに疑惑があると騒いだ。

そして、復興五輪のシンボルとして、宮城県の会場を目指した。

そこでIOCバッハ会長との直談判の場で「支持率80%の意見として」と、会場変更を切り出した。

ところがバッハは、小池の一世一代の芝居がかった要望を「決まったことを変えるのは良くない」と、にべなく軽く一蹴した。

この直後、バッハと森喜朗は、肩を抱き合うように退場していった。

日本中で絶賛され、人気沸騰状態だった小池劇場スタイルが、国際組織IOCには全く通用しなかった。

同時に、IOC委員たちの結束の固さが知れ渡った瞬間だった。

 

いつものことではあるが、マスコミの森喜朗発言追及は厳しい。

将に、鬼の首でも取ったようだ。

中には「世界が疑問」とかの、大袈裟なタイトルまでついている。

宿敵、小池百合子は早速森発言に文句をつけ「重大事態に直面した」と、暗に組織委員会会長辞任を要求する抜け目なさだ。

他にも、有力選手たちのコメントとして「森発言は不適切、不穏当で残念至極」などが、ズラリと並んで報道されている。

 

しかし、武漢肺炎再燃に苦しんでいる世界が、東京五輪について、さほど高い関心があるはずがない。

「オリンピックどころではない」のが実感のはずだ。

それなのに、世界中が森発言に懸念や不満を漏らしているように言うのは、日本マスコミの印象操作そのものだ。

あたかも森喜朗辞任が世界の正義との世論作りだが、そこで言う「世界中が要求」とは、単に自分たちの願望なのだ。

 

更に、山下泰裕JOC委員長以下、関係者のほぼ全員が森喜朗発言を直接、間接に批判するから、マスコミは我が意を得たりとなる。

森喜朗を庇う発言をする著名人は、ネット投稿以外にはゼロだ。

森喜朗もすっかり嫌気がさしているだろうが、さりとて後釜がいるわけでもないので、辞めたくてもやめられないのが実態だろう。

 

こんな状況で、果たして東京五輪は開催できるのか?

ここまで叩かれても森喜朗は、五輪開催への尽力を求められるのか?

 

森喜朗は、何が何でも東京五輪を成功させようと執念を燃やしてる。

それは日本の信用、国益の為であり、何よりも選手を思ってだ。

しかしそんな親心を、日本人も選手たちも知らない。

勝手気ままに、マスコミの扇動に乗って、森喜朗を攻撃している。

肝心のJOC幹部クラスでさえ、森喜朗発言の切り抜き報道の世論に阿って、森喜朗の揚げ足取りに躍起ではないか。

 

東京五輪に人生の全てをかけて、やっと参加資格を取った選手たちの思いを最優先するべきとの意見も承知している。

しかし、僕が森喜朗の立場なら「ナラ、後は君たちで勝手にやれ」と、椅子をけ飛ばすだろう。

 

実は、日本側から五輪を辞退すれば、IOCに莫大な賠償金を払わなければならないので、この選択肢はあり得ない。

武漢肺炎の行く末は、誰にも分からない。

救世主のはずのワクチンも、日本の手当てが遅れたとか、後遺症の不安とかが取り沙汰されている。

そんな中で無観客オリンピックをやれば、900億円の損失らしい。

どこまで現実的なのかは知らないが、更に開催を一年延長すればなどの意見も出されている。

しかしこれらは全て、唯一決裁権のあるIOC判断に掛かっている。

仮に東京五輪開催が不可能になれば、莫大な損害が発生し、その後処理を巡ってIOCとの超ハードネゴが必至になる。

ここで森喜朗に匙を投げられたら、困り果てるのは日本側だ。

 

僕は、森喜朗を騒ぎ立てる連中の、気持ちが分からない。

女性差別反対の立場から、森発言を許せないと思っているのか?

東京五輪の失敗と、日本の国際的立場の劣化を画策しているのか?

小池百合子のように、森喜朗が嫌いで嫌いで仕方がないのか?

 

しかし、ほとんど不可能視されていた、先のラグビーワールドカップ日本開催を大成功させた一番の功労者は森喜朗だ。

台湾の李登輝元総裁の国葬で、台湾の人たちから日本が感謝されたのは、森喜朗の心のこもった弔辞だった。

東京五輪が開催されても中止されても、森喜朗の経験と知識を頼りにしなければならない状況に、変わりがある訳ではない。

 

個人的な意見だが、ここまで予定と目論見が狂った東京五輪は、もう開催しなくても良いのではと思っている。

期待していた五輪経済効果は、捕らぬ狸の皮算用になってしまった。

且つどの大会でも、五輪終了後は深刻な不況に直面している。

オリンピックは、思われているほど美味しい大会ではない。

 

森喜朗の揚げ足取りに躍起になる日本人がいて、本来なら一番感謝してくれるはずの選手たちからも批判されている。

なら森さん、無理をすることはない。

東京五輪組織委員長の座なんてブン投げて、楽になれば良い。

愛知県知事リコール運動の顛末

僕は40年ほど前の二年間を除いて、愛知県民であったことはない。

だから当たり前に、県知事リコールの投票権などなかった。

しかし、愛知県のバックアップで開催された、あいちトリエンナーレについては、日本人として怒りを覚えた。

表現の自由を掲げた連中によって、昭和天皇のご真影が燃やされ、踏みにじられたフィルムが放送されていたのだ。

これは、絶対に許せないと思った。

だから、高須克弥院長や河村たかし名古屋市長が主唱した、大村秀章愛知県知事リコール運動には、陰ながらも応援していた。

月刊Hanadaの別冊本まで買い込んで、有志たちがリコール運動に至った思いを理解し、共有しようともした。

 

しかし残念ながら、責任者だった高須院長の病状が悪化し、且つ賛同者も必要な票数の半分しか集まらず、高須院長の一時中止宣言で、実質的にリコールに失敗して終結した。

これを聞いた時は、誠に残念な気持ちだった。

やはり愛知県では、トヨタトヨタ労組が消極的だと、リコールのような大がかりな政治ムーブメントはうまくいかない。

またその後、大村県知事は津田大介サヨクに対して融和的な面もあるが、県の経済活性化に適切な政策を実施していることも知った。

サヨクの跳梁跋扈を許したトリエンナーレは不愉快千万だが、リコール不成立が愛知県民の意思なら、仕方がないかと諦めていた。

 

そんなところに飛び込んできたのが「43万5千筆に及んだリコール署名の83%が不正だった」とのニュースだ。

これがなかなか、分かりにくい内容だ。

・不正の内容は、同一人物に掛かれたと疑われる署名が90%。

・選挙人名簿に登録されていない者の署名が48%

・選挙人名簿に登録されていない受任者が収集した署名が24%

三つの要因が重なっているものが多いのだろうが、そもそも36万2千筆が不正投票とは、到底信じられない。

この結果では、リコールに賛成した有効票は、必要票86万筆に対して、わずか7万筆だったことになる。

 

元々リコールに反対していた、共産党も含めた勢力は、ここを先途とばかりに「インチキだった」とリコール推進派を攻撃する。

反対派がこう動くのは当たり前に予想されるが、リコール推進派にとっても、さすがにこの数字は納得できない。

 

それはそうだろう。

憲政史上初めての県知事リコールを成立させようと、全員が一所懸命に努力した積りだったはずだ。

途中経過では、高須院長自ら「凄い勢いで運動が進んでいる」と、発破をかけていた。

虎ノ門ニュース出演者たちが、大挙して名古屋市に押しかけ、リコールを呼び掛けていたではないか。

情勢は楽観は許さないが、さりとて絶望的でもないと信じていた。

ところが実態は、わずかに有権者の10%未満の賛同しかなかった。

これじゃ「話しが違う」と、アタマにも来るはずだ。

 

責任者の高須院長も河村市長の態度も、煮え切らない。

確かにこの二人が、直接に不正を指示したのではないだろう。

恐らくは、リコール推進運動員が、思うに任せない票の集まりに焦って、不正に手を染めたと推測される。

高須院長は、自らの不正関与は否定して、リコール反対派がわざと不正票を紛れ込ませた可能性を指摘していた。

しかし百歩譲って、組織に忍び込んだ反対派が不正したとしても、リコール成立の必要票数には圧倒的に不足していた事実は変わらない。

 

また、集まったリコール票を選挙管理委員会に提出する前に、内容を調べなかったのかとの疑問も残る。

高須院長は、自分が集めたものはチェックしたと言っているが、そこには不正は皆無だったのか。

他では「集めた人に失礼に当たるので不正確認はしなかった」とのコメントもあるが、これもまた情けない言い訳だ。

結果としては、リコール運動そのものの信用を完全に失墜させ、日本を冒涜する催しに税金を投入することの是非も有耶無耶になった。

 

当然ながら、このような不始末の責任は、主催者で責任者の高須院長が、一番に負うべきだ。

だからこそ高須院長の誠実、且つウソ偽りのない説明が求められる。

仄聞する限りだが「不正ではない10万筆が自分を支持してくれた」発言などは、詭弁であり論理のすり替えだ。

またもう一人の責任者、河村たかし市長もまた「自分も被害者」などと開き直るのではなく、何故これほどの不正票が紛れ込んだのかを解明する責任がある。

 

大村県知事は「リコール不正署名は、民主主義の根幹を揺るがす」と発言した。

必要票の半分しか集まらずリコールが失敗しただけでなく、その大半が不正票とは、大村にとってはさぞや快哉を挙げたい思いだろう。

大村が嫌いな僕としては悔しさで一杯だが、今回の事態は、敵将大村にそんな思いをさせてもやむを得ない。

リコール推進派による事態の解明と、その発表が待たれる。

上念司のニューエンターテインメント

保守系情報発信番組、虎ノ門ニュースグループが仲間割れした。

 

尤も実質的には、上念司だけが、DHC番組から追放処分を受けたようなものだ。

アメリカ大統領選挙で、上念と同じような主張だったケント・ギルバードは、未だお呼びがかかっている。

虎ノ門ニュース主流派の百田尚樹や有本香が、上念を目の敵にしていることが良く分かる。

お払い箱の上念も、もはや遠慮は無用とばかりに、それまでは封印してきた百田や有本への攻撃を開始した。

上念が理事長を務める、偏向番組を監視する「視聴者の会」では、それまで理事を務めてきた百田と有本を追放し、新たに「新視聴者の会」を立ち上げた。

今や、ガチンコのバトル開始だ。

他人の喧嘩は、規模が大きいほど面白い。

両方に無関係な当方は、無責任に「もっとやれやれ!」と囃したい気持ちだ。

 

虎ノ門ニュースとニュース女子のレギュラーがなくなった上念が、余った時間で面白いYouTubeを立ち上げた。

「勝手に副音声」のタイトルで、

テレ朝     「羽鳥慎一モーニングショー」

TBS       「サンデーモーニング」「報道特集

を、同時進行の副音声で解説する内容だ。

 

これが実にも白い。

ここ数年、余りの偏向報道ぶりが嫌になって、ワイドショー番組など見る気にならなかった。

しかし主音声の音を絞って、YouTuberの上念の解説を聞きながら見ると、瞬時に偏向報道が把握できる。

こんな新たなエンターテインメントを作り出す能力の持ち主は、保守論客の中でも上念がピカイチだ。

 

上念の役割は審判なので、サッカーの審判服を着ている。

番組は「FIFAの方から来ました、FIFAではありませんよ、FIFAの方からです」の台詞で始まる。

「この番組のルールは、先ずイイねボタンを押して、次に共有ボタンで拡散する、一人一人が営業マンです」と名調子だ。

内容は、サヨクがかったコメンテーターの発言を、上念が逐一チェックしながら進行する。

青木理や玉川徹、反政府論客たちが番組側の強力オフェンス扱いで、専門家や田崎史郎はディフェンス役だが、これは上念の独断と偏見に依る。

上念の言う司令塔、羽鳥慎一のボール回しで、青木や玉川が反政府的問題発言をすると、途端に上念が笛を吹き「ゴール、ゴール!」と絶叫する。

稀に正論を喋ったりすると「オット、これはオウンゴール!」と茶化す。

 

更には、コメンテータがいつまでも本題に入らないと、イエローカードを提示して「遅延行為に教育的指導」が出される。

玉川がグダグダ喋り続けると、これまた「玉川さん、ノット・リリース・ザ・マイクの反則です」とイエローが出される。

反則は、サッカー、柔道、ラグビー競技からのごゴッタ煮だが、ノット・リリース・ザ・マイクなど、よくも考え付くものだ。

先週の番組では、ゲストの宇野某大学教授が、発言中に「キ〇ガイ沙汰」と使用禁止用語を使った。

途端に上念は「これはいけません、放送禁止用語です、放送事故です、これは一発レッド!」と、レッドカードを出す。

そのタイミングといい、喋り方といい、誠に面白く笑ってしまう。

聞いていても、上念の言葉への反射神経の鋭さが良く分かる。

 

上念は、このYouTubeに手応えを感じているようで、いすれは虎ノ門ニュースの解説もやりたいと話していた。

その場合は、今や論敵と化した百田や有本の意見に対して、上念が副音声でそれを冷やかすことがあるかもしれない。

最近の虎ノ門ニュースは陰謀論者が主流で、彼らは今までの論理破綻について、一切頬被りしている。

上念が、そんな彼らの恥部を炙り出せば、これは面白い見世物になる。

 

DHC番組から、石もて追われるような扱いを受けた上念だ。

元々お世話になった恩義はあるかもしれないが、そんなことに構う必要はない。

実際には、百田や有本の親衛隊は多数存在し、上念を攻撃し続けている。

しかし、上念だってまだまだ捨てたものではない。

それなりの応援団がついているし、何より、ここまでこじれた百田や有本との間に仲直りの可能性はない。

捨て身になった上念の大暴れが楽しみだ。

艱難汝を玉にす

学生時代に場末の映画館で観た「男はつらいよ」に腹を抱えて大笑いして以来、フーテンの寅さんの大ファンだった。

一時期は映画シナリオまで買い込み、寅さんの口上を覚えた。

しかし当初は、主演の渥美清の動きが機敏で、キップの良い啖呵が楽しみだったが、回を重ねるに従いストーリーがマンネリ化した。

同時に肉体の衰えから、渥美清の動きもドンドン緩慢になってきた。

また監督の山田洋二が隠れ共産党員と判明したころから、シリーズの中盤以降は、全く興味を失った。

 

ただ寅さんの名セリフは、いくつか覚えている。

中でも「思い起こせば恥ずかしきことの数々、今はタダ後悔と反省の日々を過ごしています」は秀逸だった。

将に自分のことを、言い合わらしているからだ。

 

思い起こしても、僕の中学、高校、大学の頃の過去は最悪だった。

それでも当時は、親や家族の庇護があった。

少々道を踏み外しても、家族が温かくサポートしてくれたので、辛うじて堅気の人生に戻ることができた。

 

それにしても何故あんなにバカだったのか、アホの極みだったのか?

今でも当時を思い出すと、冷や汗が出るほどだ。

自分では気の利いたことをやったり言ったりした積りだったが、とにかくやることと為すこと話すこと、全てが浮ついていた。

周囲の人にすれば「世間知らずの青二才が分かったようなことを言っている」と、さぞや呆れ果てていただろう。

 

自分でも変わったと実感するのは、就職して以降だ。

家族の支援がなくなった後は、全てが自己責任になる。

しかも、仕事の場合は、自分勝手に事を進めるわけにはいかない。

結果は連帯責任で、自分のミスが全員の努力を台無しにすることもある。

勢い言動は慎重になるし、先輩や同僚に相談しながらことを進める。

それまでのように、言葉だけが踊る表面的だけの空想論を唱えると、却って信用がなくなってしまう。

最悪の場合は、社会人失格の烙印さえ押され、爪弾きものになる。

 

しかも僕の場合、入社直後にそれまでの無軌道生活が会社にバレ、実質的な島流し状況で会社生活がスタートした。

身から出た錆とは言え、会社員として一番重要な仕事仲間が少なかったことはハンディとなった。

しかしそれでも、たまたま巡り合った顧客や先輩たちに恵まれた。

僕は人に惚れっぽいが、それでも「この人に出会えただけで、この会社に就職した甲斐があった」と思わせる顧客や先輩はおいそれとはいない。

僕の場合は、そんな人たちが職場職場にいた。

そんな人たちとの仕事上の打ち合わせや日常会話で、印象に残ったものを書き連ねたら、A4用紙ビッシリと30ページにも及んだ。

リタイアする時、遺言として後輩に送ったら、たいそう喜ばれた。

 

嫁とは、同郷で同じ中学、高校の先輩、後輩だ。

悪名高かった分、当然ながら僕のだらしない部分をよく知っている。

二人が偶然に再開したのは、僕が就職して二年ほど経った時だ。

彼女にも、昔とは僕とはずいぶんと違って見え、それまでの先入観とのギャップに驚いたと話していた。

 

仕事では、苦労が多かった。

特に僕の場合は同期の中でも、回り道をしながらの会社生活なので、余計な苦労まで背負い込んだ。

しかしそんな苦労が、むしろその後の人格形成にはプラスになった。

 

艱難汝を玉にする!

若いうちの苦労は、買ってでもしろと言われる。

僕は、何も好き好んで苦労をする必要はないと思う。

しかし不幸にして苦労をしても、そこから学ぶものがある。

自分の経験則でも、実に多くのことを苦労から学んだ。